ラカン理論の華のひとつ「四つの言説」図だが、上図の右上にある「大学人の言説」は、必ずしも教育機関としての大学に所属する者の言説(=社会的関係)ではなく、知の言説、専門家の言説である。 |
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大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、ドグマと仮定 (S1)の受容に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生み、さらなる知の創出(S2)を促す。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016ーー四つの言説基本版) |
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四つの言説のベースは左上の「主人の言説」であるが、この主人とは支配者の言説ではありながら、主語の言説、自分自身に対する支配者の言説でもあり、主語を使って語るかぎり、人はみな主人の言説と言っていい相がある。 |
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主人の言説は先ほど示したように主語の言説の相があるとはいえ、この主人が最も典型的に現れるのはやはり政治的リーダーにおいてである。そして大学人の言説も知の言説であるとはいえ、やはり大学という教育機関に属する者たちに典型的に現れやすい。 大学人の言説の特徴は、上のStijn Vanheule2016、Zizek1991の注釈にともにあるように、中立を装って、主人ーードグマあるいは支配欲ーーを抑圧した言説である。 ここでは四つの言説の基礎構造もあわせて大学人の言説を図式化しよう。 ラカンの言説理論とははあくまで構造論的思考の下にあり、教師をやっていれば必ずこの形の言説=社会関係になる。上の図の白い部分は四つの要素が入り、グレー部分は構造である、ーー《要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって de position 」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)》(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年)
個人は社会関係=言説の所産なのである。それが基本的には四つあることをラカンは示した(プラス資本の言説)。すべての言説は真理を隠蔽した見せかけの言説である。
そしてこの言説理論の基礎構造の読み方は次の通り。 この基礎構造の上に四つの言説が乗る。そのひとつが先ほど示した大学人の言説である。 さてここで言いたいのは実はツイッター上で直近に見られた橋下徹と政治学者の論争である。橋下は明らかに主人の言説で語っている。政治学者は大学人の言説である。 ーー主人の言説から大学人の言説への移行とは、時計とは逆回りに45度回転させた言説に過ぎず、繰り返せば人の社会関係のベースはこの主人の言説である。 橋下徹は左の形で学者たちに向けて分裂した主体を隠蔽しつつ語っている。学者たちは右の形で自らの主人を隠蔽しつつ見せかけの中立性を装い語っている。 別の言い方をすれば橋下は、お前さんたちのドグマは見え見えだよと学者たちを嘲弄している。学者たちは、橋下は偉そうにものいうが、その分裂は瞭然としていると非難する。どちらの言説も抑圧されているものに触れるので互いに罵倒のし合いが始まる。少なくともあの論争はこういう構造をもっている。
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