2022年4月22日金曜日

スピノザの「原因と結果」、あるいは「死の欲動」の遡及性について

 ◼️「原因は結果によって遡及的に構成されている」


系譜学的な思考、つまり原因と結果の遠近法的倒錯を見出す思考は、《超越論的》な思考に固有のものである。実際に、そのことを最初にいったのは、前章で引例したようにスピノザである。


《……いまや、自然が自分のためにいかなる目的因もたてず、またすべての目的因が人間の想像物にすぎないことを示すために、われわれは多くのことを論ずる必要はない。(中略)だが私は、さらにこの目的に関する説が自然についての考えをまったく逆転させてしまうことをつけくわえておきたい。なぜならこの目的論は、実は原因であるものを結果と見なし、反対に〈結果であるものを原因と見なす〉からである。》(『エチカ』第一部付録II. 32)(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


●原文

Nam id, quod revera causa est, ut effectum considerat, et contra.


●英訳

For what is really a cause it considers as an effect, and conversely what is an effect it considers as a cause.



柄谷は『トランスクリティーク』でこの原因と結果の遠近法的倒錯を簡潔に言い直している。


しばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



ーー「遠近法」Perspektivismus 用語はニーチェも使っており、ニーチェは「原因と結果」についてのスピノザの記述をノートに取っていたり、『道徳の系譜』などにも「原因と結果」をめぐる具体的な記述がふんだんにある。

………………


◼️フロイトラカンにおける遡及性


遡及性によって引き起こされるリビドー[daß die durch Nachträglichkeit erwachende Libido ](フロイト「フリース宛書簡」Briefe an Wilhelm Fließ, 14. 11. 97)


これは何を言っているか。人間においてエスのリビドーは潜在的には先にある。だがそれが現勢化されて真に絶え間ない欲動蠢動を引き起こすのは「事後的=遡及的」だということである。


フロイトは同じフリース宛書簡でこうも言っている。


(原)抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる[Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung ](Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)


この境界表象[Grenzvorstellung ]はエスの境界にある固着[Fixierung]である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


この固着をフロイトは欲動の表象代理 [Vorstellungs-repräsentanz des Triebes]あるいは欲動代理[Triebrepräsentanz]とも呼んだ。


われわれには原抑圧、つまり欲動の心的(表象-)代理[psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes]が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着[Fixerung]が行われる。Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben(フロイト『抑圧』1915年)


この欲動代理=固着としての境界表象[Grenzvorstellung ]をフロイトは後年、境界概念、ラカンは境界構造と呼んだ。


欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord.  ] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)


この意味で、欲動=享楽を掴むには、エスよりもエスの境界表象としての固着のほうがはるかに重要なのである。そもそも表象がなければ欲動の反復強迫など把握できない(例えばトラウマ神経症に悩まされている患者の臨床はまず反復強迫の引き金を引く表象を明らかにすることであるだろう)。


ラカンが「シニフィアンは享楽の原因だ」というとき、このシニフィアンは境界表象としての固着のことを言っている。


シニフィアンは享楽の原因である。シニフィアンなしで、身体のこの部分にどうやって接近できよう? Le signifiant c'est la cause de la jouissance : sans le signifiant, comment même aborder cette partie du corps ? (…)


シニフィアンは享楽を「留める!」ものである。Le signifiant c'est ce qui fait « halte ! » à la jouissance (ラカン、S20, December 19, 1972)


「享楽を留めるシニフィアン」をジャック=アラン・ミレールは「欲動のクッションの綴じ目」と表現している。


S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である[S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)




S(Ⱥ) はシニフィアンプラス穴である[S(Ⱥ) → S plus A barré. ] 〔・・・〕S(Ⱥ)は穴に敬意を払う。S (Ⱥ)は穴埋めするようにはならない。[« S de A barré » respecte, respecte le A barré. Il ne vient pas le combler]. (J.-A. MILLER, Illuminations profanes - 7/06/2006)



このS (Ⱥ)というシニフィアンが境界表象=原抑圧=固着である。


境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

フロイトの原抑圧として概念化したものは何よりもまず固着である。この固着とは、身体的な何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。〔・・・〕原抑圧はS(Ⱥ) に関わる [Primary repression concerns S(Ⱥ)]。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


かつまたS(Ⱥ) は、現実界の症状「サントーム」のマテームである。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient]   (Lacan, S23, 17 Février 1976)


サントーム自体、フロイトの固着である。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要)


そして超自我自体、これまた事実上固着であり、S(Ⱥ) =サントーム=固着=超自我となる。


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


「超自我=固着」における自己破壊欲動とは「マゾヒズム=死の欲動」の意味である。


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


したがって「S(Ⱥ)=境界表象=固着=超自我」とは、何よりもまず反復強迫としての死の欲動を意味する。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


ラカンは次のように言っている。


超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, 16  janvier  1963)


これは超自我S(Ⱥ)は現実界の享楽の原因だということである。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


現実界の享楽、すなわち死の欲動である、《死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel]》 (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


重要なのは、エスの境界表象としての超自我=固着が事実上、エスの欲動蠢動の原因だということであり、その逆ではないということである。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう(原)抑圧された欲動蠢動(≒固着)は分離されたままである[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. ]〔・・・〕・・


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者(異者身体 Fremdkörper)の症状と呼んでいる。[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


この異者[Fremdkörper]はフロイトラカン理論において核心概念のひとつだが、エスの欲動蠢動としての異者は、超自我への固着ーー超自我による刻印は定義上、「身体の出来事=トラウマ」であり、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]に相当するーーを通してのみ遡及的に把握される。


自我エス超自我の関係


下方向の⬇︎の意味はーー、


原初に把握されなかった何ものかは、ただ事後的(遡及的)にのみ把握される[quelque chose qui n'a pas été à l'origine appréhendable, qui ne l'est qu'après coup ](ラカン, S7, 23  Décembre  1959 )




結局、超自我S(Ⱥ)とは死の欲動の「水力発電所」である。


大河の真ん中に水力発電所[une usine hydroélectrique] を運営しているとしよう。その機械にはエネルギーの蓄積の原理[principe de l'accumulation d'une énergie]がある。〔・・・〕


だが次のように言うことーー、エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある[l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve]--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間[moment où elle est accumulée] からのみであるから。そして機械ーー水力発電所[usine hydroélectrique]ー。が作動し始めた瞬間[moment où les machines se sont mises à s'exercer] からエネルギーは蓄積される。(ラカン, S4, 28 Novembre 1956)






超自我は自我とエスを分離させる審級であり、人はみな超自我を持っている。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーー《私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde]》(Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977



…………………



※付記


究極的には、死の欲動とは固着によって分離されてしまった「モノ=異者=残滓」を取り戻そうとする、生きている存在には不可能な反復運動である(取り戻してしまったら生物学的死が訪れる)。


●自我に同化不能のモノという残滓

(自我に)同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)


●現実界のトラウマ(モノのトラウマ)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma, ](Lacan, S11, 12 Février 1964)

フロイトの反復は、(自我に)同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )


●モノ=異者=残滓

このモノは分離されており、異者の特性がある[ce Ding … isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.]  〔・・・〕モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


●対象a=残滓=異者=享楽=固着

残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  (Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,… absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


●S(Ⱥ)=対象a=享楽の固着(リビドーの固着)

言わなければならない、の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barréS(Ⱥ)(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)

無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)


ーー《ラカンは、フロイトがリビドー[libido]として示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽[jouissance]である。 J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011


リビドー固着という残滓=異者

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

残滓現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


死の欲動=以前の状態の回復運動

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[ Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen,](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](Lacan, E848, 1966年)


究極の以前の状態が何かは、人はみな知っている筈である。



●リビドーと死

リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない [La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou](Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である[Le terme de ravage,…– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)

究極的には死とリビドーは繋がっている[finalement la mort et la libido ont partie liée.] (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)


●リビドー=愛の欲動=死の欲動

リビドーは愛の欲動である[Libido ist …Liebestriebe](フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)

死は愛である [la mort, c'est l'amour.](Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)

愛は死の欲動の側にある[l'amour est du côté de la pulsion de mort](Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)



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自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに欲動とは人間の本質に他ならない。

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年)


ーーAppetitus ist Trieb (Willehad Lanwer & Wolfgang Jantzen, Jahrbuch der Luria-Gesellschaft 2014)