2022年4月22日金曜日

神の穴[Trou de Dieu]をめぐって

  

中井久夫は、解離とはフロイトの排除であり、トラウマにかかわると言っている。


解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)




排除[Verwerfung]ーーVer - werfung「外に - 放り投げる」ーーをフロイト的に言えば「自我の外のエスに放り投げる」となる。


ラカンはこれを外立[ex-sistence]と言った。


享楽は外立する[la jouissance ex-siste.](Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である[terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même.] (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)


享楽(現実界の享楽)は穴=トラウマであり、「享楽の外立=享楽の排除」は享楽の穴、あるいは享楽のトラウマである。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


同じことだが、現実界の穴、現実界のトラウマともなる。


外立は穴をなす[L'ex-sistence- fait trou. ] (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

外立の現実界がある [il a le Réel de l'ex-sistence] (Lacan, S22, 11 Février 1975)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[ le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


排除=外立とは原抑圧のことである。


原抑圧は排除である[refoulement originaire…à savoir la forclusion. ](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)


すなわち「原抑圧の排除=原抑圧の外立=原抑圧の穴」となる。


原抑圧の外立 [l'ex-sistence de l'Urverdrängt] (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.](Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


フロイトにおいて原抑圧の別名は固着である。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


したがって原抑圧の穴とは「固着の穴」である。


ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に穿つ。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


つまりは固着を通した「身体の穴」である。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)




ところでラカンはこうも言った。


神の外立[l'ex-sistence de Dieu] (Lacan, S22, 08 Avril 1975)


「外立」をここまでと同様、「穴」に置き換えれば、神の穴[Trou de Dieu]となる。


ラカンは既にセミネールⅩの段階で、享楽の意志[volonté de jouissance]に関して神の不安[l'angoisse de Dieu]という表現を使っている[参照]。


不安とは何か?


不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


すなわち「神のトラウマ」である。


この神とは超自我である。


一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970)


そして超自我はリアルな対象aとしての穴にかかわる。


私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (Lacan, S16, 27 Novembre 1968)


したがって「神の外立=神の穴」とは、「超自我の穴」となる。



では次のものはどうだろう。


症状の外立[L'ex-sistence du symptôme ] (Lacan S23, 18 Novembre 1975)


「症状の穴」となるが、この症状は身体の出来事を意味する。


症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 16 juin 1975)


そしてフロイトの定義において、身体の出来事はトラウマである。


トラウマは自己身体の出来事である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


こうして「症状の穴=症状のトラウマ」となる。


この症状は現実界の症状であり、サントームとも呼ばれる。


サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient ]  (Lacan, S23, 17 Février 1976)

サントームは身体の出来事として定義される[Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)


こうして「サントームの穴」、あるいは「サントームのトラウマ」となる。


ここまで示してきた表現群の代表的なものを並べよう。


享楽の穴

Trou de la jouissance

現実界の穴

Trou du réel

原抑圧の穴

Trou de l'Urverdrängt

固着の穴

Trou de la fixation

超自我の穴

Trou du surmoi

サントームの穴

Trou du sinthome



なお、享楽(欲動)、固着、超自我、サントーム等はS(Ⱥ)という記号で示され、厳密にはエスとは異なる。



S(Ⱥ)とは境界シニフィアンとエスの両方を含んだ記号である。


S(Ⱥ) はシニフィアンプラス穴である[S(Ⱥ) → S plus A barré. ] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 7/06/2006)

境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord.  ] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)



穴Ⱥはトラウマであり、すべて異者に置き換えてもよい(異物、異者身体とも訳される)。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者 [Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,] (フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


例えば享楽の異者、固着の異者、超自我の異者、サントームの異者である。


要するに上の表現群は基本的にはすべて同じ含意がある。


サントームという享楽自体[la jouissance propre du sinthome」 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


ーー《サントームはエスの形象である[le sinthome, c'est une figure du ça ] 》(J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要)


超自我と原抑圧は固着概念を通してみるとその一致がわかりやすい。


超自我と原抑圧の一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.]  (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着される[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert]  (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


暗闇に異者が蔓延るとは、エスにトラウマが蠢くということである。


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者の症状と呼んでいる。[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

異者は原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück].(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)




始まりと同様、中井久夫を引用して確認しておこう。


一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年)




……………


表題を「神の穴」、つまり超自我の穴としたのは、前々回の「柄谷の「天皇と超自我」をめぐって」に遠巻きにして近づこうとする試みのためである。