ボクは日本的環境において最も気をつけなくちゃいけないことは、もう何度も繰り返して引用しているからな、これ見といてくれるかな➡︎「レミング的悲劇ーー日本文化論をめぐる」
とくにツイッターなんかでみんなが一致団結して何ものかを応援したり、逆に何ものかを排除しだしたりしたら、最低限、そこから距離を取ることだよ、
私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。(古井由吉『哀原』女人) |
知の義務といったらもはやダメだな、この今いわゆる「知識人」がお祭り騒ぎの先頭に立っているのだから。 あれら「ネオコン工作員」らしき国際政治学者集団がお祭り騒ぎを先導してる相があるんだから、知の義務じゃなくて、重要なのは「生の芸術の義務」と言っておくよ。 |
よくないのは、「一方に革命があり、もう一方にはファシズムがある」などということを言うということです 。事実、ものごとをいくらか違ったやり方で見ようとすれば、そうしたことを言うことはできません。 ⋯⋯まったくの善人であったりまったくの悪人であったりするような人は一人もいません。でも人々はいつも、あたかもそうした人がいるかのような考え方をとっています。(ゴダール 『ゴダー ル /映画史Ⅱ』) |
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人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。 |
この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』) |
いくら気をつけていても一致団結のお祭り騒ぎに仲間入りたくなることはときにあるよ、ボクも例外ではない。でもそうやってみたくなるときは、いったん立ち止まって「芸術的な遠方から」自らを眺めてみることさ。 |
われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方[künstlerischen Ferne]から、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする [über uns lachen oder über uns weinen] ことによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない!(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年) |
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もちろんボクらはシロウトに過ぎないのだから、そしてブチャの出来事なんて世界的に首脳級までロシア非難ゴウゴウなんだから、あれは「フェイク」だなんて言うつもりは毛ほども「まだ」ない。映像が出来すぎてるという感はなきにしもあらずだけれど。
「ロシア工作員」がこんなこと言ってるけどさ。
次の女性は以前、池内恵をさんざん罵倒していた「超ロシア工作員」だ。
いやあすごいな、 下山伴子さん。何はともあれカント的パララックスを与えてくれる、そしてネオコン工作員が間違いなく「至高の陰謀論者」と認定する女性で、スキナタイプダナア・・・もうひとりもっとスキナタイプの50代のオバチャンがいるんだけど彼女の名は秘匿しとくさ、シブい着物が似合う美人なので言ってはもったいない、谷崎の女系で真に「芸術的遠方から」鑑賞すべき主婦だね、昨日は岸田文雄にメンション入れて「この情弱!」とか言ってた気合い系の美熟女だ。
3月30日 ロシア軍退去
3月31日 ブチャ市長が現地で解放発表(死者については何も語らず)
4月01日 ネオナチがブチャ入り
4月02日 ウクライナ特殊部隊SAFARIがロシア協力者掃討開始
4月03日 ウクライナ国防省が映像公開
(ロシア軍の殺害なら屍体や血痕が新し過ぎる疑義)
あんなのマガオでとったらプルーストが墓のなかからレミニサンスしちゃうよ |
人は、まるで恋をしているときのように、目かくしをして、新聞を読んでいるのだ。事実を理解しようとはつとめない。愛人の言葉に耳を傾けるように、主筆の甘言に耳を傾けている。on lit les journaux comme on aime, un bandeau sur les yeux. On ne cherche pas à comprendre les faits. On écoute les douces paroles du rédacteur en chef, comme on écoute les paroles de sa maîtresse. (プルースト「見出された時」) |
もっともあれらネオコンあるいはウクライナ工作員らしき国際政治学者たちは1970年前後生まれで、指導教授らがまだほとんどサヨク系だったろうから、ひどくイジメラレタ過去があるんじゃないかね。ようやく彼らの時代になって、でもこの危機のおり上の世代を中心としたサヨク的言説での反論に遭遇すると、小泉悠曰くの「自動ブレーキ」ではなく、逆の「自動攻撃機械・自動罵倒機械」になっちまうんだろうな、その点では「同情」しないでもない。
以上、こういった危機の場合にはとりわけ重要なのはマルクスだ、 |
重要なのは、〔・・・〕マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしには存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
そう、上に貼り付けた塩川伸明さんの言っている《あるイデオロギーを批判しながら、別の方向に凝り固まったイデオロギーという感じ》にならないためには、このマルクスしかない。
このマルクス的態度のこの今の具体的あり方は、われわれは西側メディアという支配的言説に多かれ少なかれ洗脳されているのだからーーそもそも情報の大半は西側からだーー、「外の足場から」見なくてはならないということだ。その当面の意味は「陰謀論」として扱われている言説と西側メディアの言説の「間」に立つことであり、傍目には陰謀論側に立ってしまっているように見られることを敢えて引き受けて、「絶え間ない移動と転回」を試みることしかない。天秤の左右の皿を左側にある程度傾けないとこの「間」は生じてこない。今は右側に傾きすぎているのだから。
それとーー繰り返せばーーロシア軍が安易に撤退したら、西側からの武器給与等で肥え太ったウクライナのネオナチが、親ロシア系住民を大量虐殺するのではないかという可能性は常に念頭に置かなくちゃいけないじゃないかね。 |
ウクライナは、主に国の西側(北西部)を基盤とする、親西側傾向が強いウクライナ系住民(宗教的にはカトリック。全人口の約2/3)と、東側(南東部)を基盤とし、親ロシア傾向が強いロシア系住民(宗教的にはロシア正教。全人口の約1/3)によって構成されている、と言われる。(浅井基文「ロシアのウクライナ侵攻-問題の所在と解決の道筋」3/6/2022) |
なぜこの視点があれら国際政治学者たちにないかと言えば、連中はウクライナのネオナチをいまだ否認し続けているからだよ。もうひとつ、《「自分は犠牲者たちに連帯し、不正義を糾弾する正義の味方だ」という自己満足》(塩川伸明「ウクライナ戦争をめぐって」 2022 年 3 月 13 日)ーーこれに陥いるのが一番マズイ。だがそう見ざるをえない国際政治学者たちがいる。ウィンストン・ゼレンスキーなどとゼレンスキーのチャーチル風演説にナイーヴに萌えてしまった「国際政治チャンネル」なる集団の政治学者たちだ。一般公衆はやむ得ないと妥協するにしろ政治学者がこれでは絶望的だ。
ロシアウクライナ戦争にコメントするなら次の事態を何よりもはやく「厳密に」確認することじゃないか(これさえ陰謀論と言っているのがこの今の西側メディアであり、ネオコン国際政治学者たちだが、一年前まではこれが「事実」だいう情報を西側メディアはふんだんに流していたのである。既に2013年春のドイツでのIMF国際会議においてさえウクライナのネオナチ問題が話題になっている[参照])。
◼️「ウクライナには「ネオナチ」という象がいる」(晴義明、2022年03月23日)より