2022年4月6日水曜日

「大衆支配・衆愚政治・ファシズム」ーー民主主義の三幅対

 ボロメオの環は、私はラカンのそれをベースにして示すことが多いとはいえ、ーー当たり前のことだがーー、なにもラカンの専売特許ではまったくないよ。7世紀ごろから結束力の象徴として使われてきた図であり、その後別の領域でも種々の形で、さらには20世紀になってからは数学の世界で、という具合に多様な使われ方をしてきた。

例えばカラーの世界でも色ボロメオの環が次のような形でネット上に落ちている。


この色の多色感は実によろしい(国旗が三色ある国の国民より、赤白とか緑赤などの国のほうがアツくなることが多いのはよく知られている・・・などとは私は丸括弧付き以外では決して言わない)。

何はともあれラカンはこの形を思考のモデルと使ったのであり、それは人が単眼思考やせいぜい善悪レベルでの二項対立思考に陥らないためと言ってもよいし、あらゆる事象において最低限三つの環ーープラス重なり目の四つーーの関連を忘れてはならないとしたと言ってもよい。

例えば「民主主義」という語の多義性をこのボロメオの環において眺めてみることもできる。



ーーこれはWikipediaにも記されている民主主義の最も基本的な三特徴である。ファシズムの原義は束になることであり、私は何度か日本的ムラ社会は最も民主主義的社会であるだろうことを示してきた[参照]。

さらに柄谷=カール・シュミットによる民主主義の定義を入れてみることもできる。


民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

ボルシェヴィズム(共産主義)とファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)



ここではファシズムではなく、ネオナチ用語を使って示そう。ネオナチとはユダヤ人排斥には限定されず、異質なものの排除運動に関わって1990年前後から使われてきたのだから(例えば1992年旧東独のロストクで起こった難民収容施設の焼き討ち事件は「ネオナチの仕業」と呼ばれた。当時から「neo-Nazism Neo-fascism」なのである)。




こうして民主主義という用語の三相が示される。特に多民族国家で民主化運動が起これば、異質のものの排除としてのネオナチ化が起きやすい。

ウクライナのような主に二言語国家で民主化ーー別名バンデラ化、国粋主義化ーーが起きればロシア言語系の住民(+エスニック系)が排斥される恐れがある。隣国のロシアがこの傾向に脅威を感じるのはごく当たり前の心理である。

近未来のジェノサイドの危険性



こういった国での民主化はどんな帰結を生みやすいのかを推測するには、わずかばかりの想像力があればすむことだ。

ここでは簡単に言おう。人は善としての民主化という語の背後にはネオナチ化の悪があるのではないかと常に疑わなければならない。


そもそも民主主義の始まりとして賞賛されるアテネのデモクラシーは奴隷制だけでなく、構造的に異質なものの排除で成り立っており、あれはたんなる「きれいごと」に過ぎない。少なくともそのアスペクトを見逃してはならない。


近代医療のなりたちですが、これは一般の科学の歴史、特に通俗史にあるような、直線的に徐々に発展してきたというような、なまやさしい道程ではありません。

 

ヨーロッパの医療の歴史は約二千五百年前のギリシャから始めるのが慣例です。この頃のギリシャは、国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました。当時のギリシャでは神殿にお参りしてくる人のために神殿付きドクターと、一方では奴隷に道具一式をかつがせて御用聞きに回るドクターとがありました。


ドクターの治療を受けられたのは中間層であって、奴隷は人間として扱われていなかったのでしばしば病気になってもほっておかれました。市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っているんです。これが民主主義の始まりみたいな奇麗ごとにされていますが、働かない人というのはものすごく退屈していますから、面白い話をしてくれる人が歓迎されます。そこでは妄想は皆が面白がって、病気とはみなされなかったようです。いちばん上の階級である市民が悩むと「哲学者」をやとってきて話をさせます。つまり当時の哲学者はカウンセラーとして生計を立てているのです。この辺はローマでも同じです。ローマ帝国は他国を侵略して、だんだん大きくなってきます。他国人を捕えて奴隷として働かせ、消耗品として悲惨な扱いをしていました。暴力の発散の対象に奴隷がなって、慰みに殺されたりしています。(中井久夫「近代精神医療のなりたち」初出1994年『精神科医がものを書くとき』所収)



………………


※付記 フロイト版ボロメオの環


ラカンのボロメオの環はもちろんフロイトに重要な起源がある。中期ラカンはトーラス円図をしばしば示した。




これは結局、フロイトの「自我エス超自我」図のラカンヴァリエーションとして捉えうる。



だがこの二つの環では表現できない部分がある。とくに「超自我と自我理想」の相違である(参照:自我理想と超自我(父の名と母の名)簡潔版)。


後期ラカンのボロメオの環の使用の重要性のひとつはここにある、と私は考える。





※理想自我と自我理想の相違は、「シュミット・フロイト・ファシズム」を参照。


もっと簡単に次のように置いてもよい(イメージの主要な意味は「自己イマージュ」であり、エスとは身体的要求ーー「欲動の身体」ーーだから)。



人はみなこのように出来上がっている。


底部にある「身体」ーー欲動の身体[le corps de la pulsion]ーーとは、人がみなもつ「あなたのなかのファシスト」である。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

破壊は、穴の原理である[Le terme de ravage,…– que c'est … le même principe, à savoir grand A barré] (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)



究極的な意味でのラカンの斜線をひかれた主体$ーー後年、話す存在[parlêtre]と呼ぶようになるがーーとはこの欲動の穴の主体である。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)