2022年5月3日火曜日

価値形態論の三角形と四角形

 前回、人間のコミュニケーションと商品の交換の構造的等価性を示したが、ラカンの言説(コミュニケーション)図の基本は次の形で示される(矢印の意味は、「四つの言説論基本版」を参照)。



この図の基本的考え方をラカンは三段階にて示している。




二段階目の図はマルクスの価値形態理論(交換理論)の「三角形」に相当する。


われわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう。その交換比率[Austauschverhältnis]がどうであれ、 この関係はつねに一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦= a ツェントネル鉄というふうに。この方程式は何を物語るか?


二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様に a ツェントネル鉄にも、同一の大きさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値[Tauschwert]である限り、こうして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。


一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形[Dreiecke]に解いていく。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の二分―に整約される。これと同様に、商品の交換価値[Tauschwerte der Waren]も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。


この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性であることはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値[Gebrauchswerten]にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品間の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である[Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis der Waren augenscheinlich charakterisiert.]


この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの老バーボンが言っているように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大きさであるならば、他の商品と同じだけのものである。このばあい同一の大きさの交換価値を有する物の間には、少しの差異または区別がない[Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert.]」(マルクス第一篇第一章第一節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体,価値の大きさDie zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert (Wertsubstanz, Wertgröße)」)




そして使用価値は斜線が引かれている(ラカンの斜線を引かれた主体$とは、主体の不在[l'absence du sujet]=空虚化された主体[le sujet vidée]=主体の穴[le trou du sujet]である)。


もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの(交換)価値である。われわれの商品としての交換-交通[Verkehr]がそれを証明している。われわれはただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。


Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander.(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)


商品語は言っている、《われわれはただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している》。人間語も同様である、「われわれはただコミュニケーション価値としてのみ互いに関係している」。自己対話も、言語を使用している限りそれを免れることはない。


このマルクスとラカンにおける三角形は簡潔にいえば、次の二文に相当する。


一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される[der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. ](マルクス『資本論』第一篇第三節「相対的価値形態Die relative Wertform」)

一つのシニフィアン(S1)は他のシニフィアン(S2)に対して主体($)を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ](ラカン「主体の転覆」E819, 1960年)



さらに商品にはフェティシズムが常に付き纏う。


商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)


このフェティッシュはラカンにおいては次の三文に相当する。


主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである[Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant]。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値[valeur d'échange] として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体[le sujet de la valeur] d'échange は何に対して代表象されるのか? ーー使用価値[valeur d'usage] である。


そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値[plus-value]と呼ばれるものである。(ラカン, S16, 13 Novembre 1968)

私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)

剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)



以上からマルクス用語を使ってコミュニケーション図を示せば次のような「四角形」になる。




ラカンの言説図とは事実上、マルクスの三角形の剰余価値付加版なのである。


右下のフェティッシュとしての剰余享楽=剰余価値は、ラカンにおいて主体の穴の穴埋めという意味を持っており、上の「商品語の交換図」を「人間語のコミュニケーション図」に置き直せば次のようになる。



この図はラカンにとって人間のあらゆるコミュニケーションを図式化した基本図である。


フランスで最も早いマルクス読みのひとりだったヴァレリーは次のように言っているが、これは上辺の「私表象→他表象」に相当する。


人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳)


もちろんさらにこう引用してもよい。


《私はひとりの他者だ JE est un autre》(ランボー)

《私は他者だ Je suis l'autre 》(ネルヴァル)



上の図の底部には、ラカンの最も基本的な幻想の式[$ ◊ a]が示されている。


幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet]   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)



この意味で「人間語のコミュニケーション図」とは幻想図なのである。それは「商品語の交換図」も同様である。


現実はない。現実は幻想によって構成されている[il n'y a pas de réalité.La réalité n'est constituée que par le fantasme](Lacan, S25, 20 Décembre 1977)


ラカンはこの幻想を妄想と言い換えるようになる。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

[Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant] (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する[tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant]」と。〔・・・〕

我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである [– fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant.](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)



したがって先ほどの図は「妄想図」ーー「人はみな妄想する図」ーーと呼びうる。


こう考えることに何の意味があるのかという立場もあろう。だが少なくとも信念の虜になることを諌める道具とはなる。今は当面それだけを言っておこう。


27歳の小林秀雄は既にこう書いている。


商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。〔・・・〕

吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。〔・・・〕


脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)


………………



晩年のラカンは次のように言った。


父の名の排除から来る排除以外の他の排除がある[il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976


これは現代ラカン派によって、人がみなもつ

一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée

と言い換えられている。


ラカンにおいて、穴とはトラウマあるいは去勢を意味し、したがって


一般化トラウマ[le traumatisme généralisé

一般化去勢[la castration généralisée


とも呼ばれる。

この穴に対する防衛、つまり穴埋め[bouchen]が、


一般化症状[le symptôme généralisé

一般化妄想[le délire généralisé

一般化倒錯[la perversion généralisée

一般化フェティシズム[le fétichisme généralisé


である。表現の仕方の相違はあるが、人間の底にあるトラウマに対する防衛という意味では、すべて同じ機能である。


つまり上に示した「幻想図=妄想図」とは、

「症状図・倒錯図・フェティシズム図」である。



結局、これらのラカン派ジャーゴンは、フロイトの次の一文に収斂する。


すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)


不安はトラウマのことである。


不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


すなわち人間のすべての症状はトラウマに対する防衛である(一般化症状)。


これのヴァリエーションとして妄想形成がある。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)


さらにフェティシズムがある。


フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕

幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt. 〔・・・〕

生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


上に欲動の抑圧によって自我分裂が起こるとあるが、この抑圧は原抑圧=排除である。

原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe](フロイト『症例シュレーバー 』1911年)

排除された欲動 [verworfenen Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)


この一般化排除に対する防衛が一般化フェティシズムあるいは倒錯である。

原抑圧の別名は穴=トラウマである。


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.](Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)


すなわちフロイトの思考においても一般化排除のトラウマに対する防衛が、症状・妄想・フェティシズム(倒錯)ということになる。


フロイトの自我分裂とは自我とエスの分裂である。



自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


最後にマルクスに戻れば、商品の価値形態も交換価値と使用価値の分裂がある。人間が自我とエスに分裂しているのと同様に。ーー《ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ]》(Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)。ここにすべての交換における病理がある。


そして、《フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある。[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien]》 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)。この大他者こそ言説図の上辺においての「S1→S2」を意味する。


中期ラカンがしばしば使用したトーラス円図は次のように置かれる。



ラカンの言説図とは何よりもまずこのトーラス円図の別ヴァージョンに他ならない。



トーラス円図の右側のA、言説図の上辺の「S1→S2」は象徴界(言語界)である。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)


そして主体$とは現実界。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet.」 (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


穴とは去勢の意味を持つ。


私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す[$ ≡ (- φ)  ]

j'écris S barré équivalent à moins phi :  $ ≡ (- φ)  (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)


そしてトーラス円図の中心、言説図の右下の対象aは穴埋めである。


-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である[Ce petit a sur moins phi , c'est la façon la plus élémentaire de comprendre cette conjugaison que j'évoquais, la conjugaison d'un trou et d'un bouchon.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)



そして上に引用したようにーー、

私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)

剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)



もちろんボロメオの環の中心のaもマルクスの剰余価値である、ーー《(ボロメオの環の)中心の楔は対象aを定義する。これが剰余享楽の場である[le coincement central définit l'objet(a). …c'est sur cette place du plus-de-jouir]》(ラカン、三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974




ーーChoseとは欲動(欲動の主体
)の別名である。つまりラカンのボロメオの環とは、人間は言語とイマージュと身体を持っており、それが互いに影響し合っているというごく当たり前のことを示している(もっとも身体というとき目に見える身体とはイマージュに属する。リアルな身体とは言語外・イマージュ外の「欲動の身体」であり、これをフロイトはトラウマの身体、異者身体[Fremdkörper]とも呼んだ)。


何度かマルクス版のボロメオの環を示してきたが、ここではラカンマテームをそのまま使用して示しておこう。





ーー商品と貨幣の底部には資本(資本の欲動)があるというボロメオの環図であり、剰余価値のフェティッシュの三形態をも示している。最も重要なのはJȺ(穴の享楽=トラウマの反復)としての資本フェティッシュであり、マルクスはこれを自動的フェティッシュautomatische Fetischとも呼んだ(フロイトの自動反復[Automatismus]=反復強迫としての死の欲動)。


もしお好きなら、言説図に置き換えてもよろしい。



………………

ちなみに噂の米ネオコンの「代理戦争」であるなら次の通り。






市場原理主義・世界資本主義の体現者米ネオコンに支えられたこの図式に歯止めを掛けないと戦争の拡張生産が続く。


永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[Lacoquille à entendre à jamais l'écoute de Marx]……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如[manque-à-jouir」 の原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)



先ほどのロシアウクライナ戦争コミュニケーション図は厳密にはラカンの「資本の言説」図を使うべきかもしれない。




資本の欲動の主体「米ネオコン」が露国を嗾けて宇国に侵略戦争をさせフェティッシュとしての剰余価値を生む。そして何の実りもない享楽欠如の無限の戦争拡大生産が起こり、核戦争を誘発すると。


“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)



噂によれば、この無限の戦争拡大を止めうる人物はあのトランプしかいないそうだ。





あのトランプ嫌いのチョムスキーがこう言っているのである・・・実際のところ他には誰もいないのではないか?


人はこの際ーー逆説的にもーー、アンチネオコンとしての「聖人」トランプの笑いに期待せねばならない。


聖人となればなるほど、ひとはよく笑う。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない[Plus on est de saints, plus on rit, c'est mon principe, voire la sortie du discours capitaliste, - ce qui ne constituera pas un progrès, si c'est seulement pour certains. ] (ラカン、テレビジョン、1973年ノエル)

よく知られているように、《恋する人とテロリストにはユーモア感覚が欠如している。》(アラン・ド・ボトン『恋愛をめぐる24の省察』)。集団ヒステリーを起こしているヨーロッパの政治家たちやら、日本の国際政治学者連中やらは全滅である。ユーモアとはボードレールのいう《同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す》ことであり、「どっちもどっち論」に束=ファシストになって排除衝動を恣にしている輩は早々に引き下がるべきである。


ニーチェは『ツァラトゥストラ』「市場の蝿」の章で、《市場においてだけ、人は「賛」か「否」かの問いに襲われる/およそ深い泉の体験は、徐々に成熟する。 何がおのれの深い底に落ちてきたかがわかるまでには、深い泉は長いあいだ待たねばならぬ》とした。戦争市場において徹底抗戦を言い募り続けてきた国際政治学者なる「市場の蝿」には是非とも蠅叩きが必要不可欠である。


既にツイッター市場では有志による蠅叩き用の国際政治学者名簿が流通している。今見てみると18名であり、これでは明らかに名の不足を感じるのでーーしかも私は《これらの盗み食いする者たちを打ち殺すには、あまりに誇りが高い》のでーーここでは掲載しないでおくが、少なくとも人は連中を「笑い」の対象にせねばならない。