このところマルクスの価値形態論とラカンの言説理論をめぐって記しているが、ここで簡単に復習しておく。
ラカンは言説を1972年に次のように定義している。 |
言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである。[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972) |
言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972) |
つまり言説は言語を通した社会的結びつきであり、これを見せかけ(仮象)と呼んだ。 この見せかけとしての社会的結びつきの別名は症状である。 |
社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999) |
ラカンはこの症状をマルクスーー事実上、マルクスの価値形態論ーーに結びつけている。 |
症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Laca,.S.18,16 Juin 1971) |
この症状は、何よりもまずマルクスとラカンの次の二文に収斂する。 |
一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される[der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. ](マルクス『資本論』第一篇第三節「相対的価値形態Die relative Wertform」) |
一つのシニフィアン(S1)は他のシニフィアン(S2)に対して主体($)を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ](ラカン「主体の転覆」E819, 1960年) |
ここには剰余価値が示されていないが、マルクスは次のように言っている。 |
商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」) |
そしてこのフェティッシュはラカンの剰余享楽としての対象aに相当する。 |
私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティッシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年) |
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
ラカンにおいて交換価値、使用価値、剰余価値も含めた発言は次にある。 |
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって代表象されうるものである[Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant]。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値[valeur d'échange] として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体[le sujet de la valeur] d'échange は何に対して代表象されるのか? ーー使用価値[valeur d'usage] である。 そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値[plus-value]と呼ばれるものである。(ラカン, S16, 13 Novembre 1968) |
より詳しいマルクスとラカンの記述は「価値形態論の三角形と四角形」で示したが、ここではラカンの言説理論図とその図式適用したマルクスの価値形態論図のみを掲げる。
ラカンはここから四つの言説を展開した。そして後にプラスアルファとして資本の言説を。だがこの「言語=社会的結びつき」の多様性自体、マルクスにその示唆がある。
経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。 Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年) |
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結局、言説という社会的結びつき[le lien social]はここに現れる社会的関係[soziale Verhältnisse]の多様性に他ならない。ラカンはその基本としてまず四つの社会的関係を示したのである。すなわち四つの言説とは「四つの社会的関係」であり、かつまた上に示したように「四つの症状」である。
ここでは対象aに焦点を当てて記述すれば、四つの社会的関係のベースは糞便関係である。あとはそれぞれ左右に45度回転させることにより、口唇関係、眼差し関係、沈黙の声関係がある(より基本的な読み方は「四つの言説基本版」を見られたし。四つの言説におけるS1, S2, $, aはそのポジションによって意味合いが多少変わることにも注意しなければならない)。
四つの言説のベースは主人の言説なのであって、何よりもまずこの言説の構造はマルクスの価値形態論にある。
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左下は隠蔽知としたが、これこそ抑圧された知であり、分析家にとっての知ーー分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された観念と病理 (S2)を脇に遣るーー、それと同時に欲望の主体$にとっての抑圧された無意識の知が回帰している図である。
そして芸術作品にこの効果がなかったら、芸術とはいったい何だというのか?
ぼくらの内の氷結した海を砕く斧 |
ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(カフカ 親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日) |