前回示したようにラカンの言説理論における「主人の言説」は、あらゆる言説ーー四つの言説プラスアルファ資本の言説ーーの基礎であり、交換関係=コミュニケーションにおける「主語の言説」とも呼びうる。
①左上のS1とは何よりもまず《シニフィアン私[signifiant « je » ]》(Lacan, S14, 24 Mai 1967)である。これはシニフィアンの主体[le sujet du signifiant]であり、「私表象」と言い換えられる。 |
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②他方、右上のS2は「他表象」であり、他の人、他のものである。 |
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③左下の主体$とは、穴、主体の穴である。 |
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現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet.] (Lacan, S13, 15 Décembre 1965) |
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主体の穴 [le trou du sujet ](Lacan, S13, 08 Décembre 1965) |
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④右下の対象aは剰余享楽であり、穴埋めである。 |
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装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
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ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。穴と穴埋めである[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir…le trou et le bouchon]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要) |
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この意味で「主人の言説」とは、幻想の構造が最も鮮明化されている図である。 |
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幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet] (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982) |
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事実、底部にはラカンの幻想の式[$ ◊ a]が示されている。 上辺の矢印に示されているコミュニケーションの不可能性[Impossible]をラカンは《真理は半分しかいえない[le mi-dire de la vérité]》と表現した。言語の壁である。底辺の菱形紋における不能性[impuissance]とは、主体の穴の穴埋めは充分にはできないことを示しており、ゆえに右下(a)から左上(S1)への回帰があり、循環運動が起こる。
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この剰余享楽[plus-de-jouir]がマルクスの剰余価値[Mehrwert]であり、フェティッシュである。 |
剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年) |
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ラカンの享楽の穴とは現実界の穴(トラウマ)のことでもある。 |
我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが、穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974) |
穴、それは非関係によって構成されている[un trou, celui constitué par le non-rapport](Lacan, S22, 17 Décembre 1974) |
現実界の享楽、それは、《享楽は関係性を構築しない。これは現実界的条件である[la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle]》(Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011) |
ラカンの思考においては、このトラウマ的関係性の不在のリアルに対して見せかけの言説で防衛するのがわれわれ人間である。 |
言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972) |
我々の全言説は現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel] (Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018) |
ここで主人の言説図を男女関係の図として置いてみよう。
男女関係の上辺の男♂と女♀は左右どちらに置いてもよろしい。古典的な男女記号においても男女両性には穴が空いている。それが何よりも重要である⁉︎
人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |
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上階の男女両性コミュニケーションは不可能である。なぜなら言語の壁があるから。この性的コミュニケーションにともなって穴埋め=剰余享楽というフェティッシュが生じる。だがこの穴埋めは元来の穴を充分には穴埋めしえない。これが地階の不能性(インポテンツ)であり、性的非関係である。実にわかりすい交換関係インポテ図ではなかろうか? 穴とは喪失(享楽の喪失)の意味を持っている。例えばヒト族においての享楽の性的非関係に対して《愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.]》(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)。だが、《剰余享楽としての享楽は穴埋めだが、享楽の喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance]》(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)。 なぜなら実は誰も知っている筈のように、人はみな穴埋め不能の穴が空いているから。
この穴とは究極的には喪われた母の穴(トラウマ)である。 ここでの父の名(P)=大他者(A)は言語であり、穴埋めである。
残滓とは父の名では穴埋めしえない母の名の残存物である。 ※残滓Reste(a)と剰余享楽(a)とはまったく異なった対象aなので最大限の注意(参照)。 ………………
ここではマルクス自身、主体という言葉を使っている、一つの自動的主体[ein automatisches Subjekt]と。しかも《資本は貨幣である、資本は商品である[Kapital ist Geld, Kapital ist Ware]と。主体$は貨幣S1であり、主体$は商品S2なのである。 資本の自動的主体とは、無目的な[end-less]=終わりなき[endless]自己増殖運動である。 資本の自動的主体がこのような常なる反復をしているのと同じように、人間も意図せずに自動反復している。フロイトはこの自動反復[Automatismus]をエスの欲動蠢動としての無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]と呼んだ。 柄谷行人はこれを資本の欲動と呼んだ。
これこそ「G ➡︎ W ➡︎ ⊿G ➡︎ G’ 」の永遠循環運動である。
ここでの貨幣は(そして商品も)事実上、資本自体であり、資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]とは先ほど示した自動的主体[ein automatisches Subjekt]の底部がそのまま現れたとするのが相応しい。 すなわち貨幣フェティッシュ[Geldfetisch]も商品フェティッシュ[Warenfetisch]もすっ飛ばした裸のままの資本の欲動が、資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]である。 ・・・しかしここまで完璧に一致していいものか、性的非関係の図と? どこかマチガッテナイカナ、不安になってきたよ・・・ (実はこれを記している中で気になっていることがある。主体の穴とは主体の去勢のこと[参照]でもあるのだが、去勢には四種類ある。象徴界的去勢・想像界的去勢・現実界的去勢、原去勢である[参照]。言説理論における去勢とは象徴界的去勢、つまり言語による去勢である。想像界は象徴界によって支配されているのでこの際無視するとしても精神分析において最も重要なのは現実界的去勢である。これを固着の穴=トラウマという。固着とはエスに身体的なものを置き残すことである。(原去勢もこの際無視する。出産外傷なのだから)。ラカンが斜線を引かれた享楽という時、主にこの固着の穴を示す。フロイト用語で言えば自我分裂[Ichspaltung](自我とエスの分裂)であり[参照]、ラカンの斜線を引かれた主体$の起源はここにある。他方、マルクスの価値とは交換価値と使用価値の分裂である。これをフロイトの自我分裂と相同的なものと扱うことができうるものか。もし出来るなら、マルクスの価値とは象徴界的去勢ではなく、現実界的去勢の審級にある。ここはもう少し考えてみなければならない。) さて今は話を単純路線に戻して記述を少しだけ続ける。
現代のマルキストはエロ事師を通さないとダメらしいよーー《いまマルキシストであるためには、人はラカンを通さねばならない![To be a Marxist today, one has to go through Lacan!]》(ジジェク書評ーーサモ・トムシッチ『資本家の無意識:マルクスとラカン』The Capitalist Unconscious Marx and Lacan by Samo Tomšič, 2015) |