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2022年5月25日水曜日

「分かってしまった事」のヴァリエーション

 

精神分析というのは、ボクが言うのはフロイトラカンのそれだが、分かりたいと思っていた事は3年ほど前に分かってしまったので、ーーと言えば不遜な言い方になるがーーもうボクの書いていることはそのヴァリエーションに過ぎないんだよ。もっともボクが思い込んでいる「分かってしまった事」に対する反対見解はないのかと時に探ってみることはこの3年のあいだにもしている。だが今のところそれに行き当たっていないね。


「分かってしまった事」を逆に言うなら、そしてここではひとつの用語を抜き出して言えば、日本言論界で言われているラカンの「享楽」概念は、だいたい全部間違っているということだ。2010年以前に語られてきた享楽概念は殆ど全滅だし、それ以降語られている「享楽」ーー例えば「相対的には優秀な」松本卓也くんが示している享楽の注釈も誤謬だ。少なくともmisleading だ。例えば彼は2018年の『享楽の社会論』でラカンの理論的変遷として《死のイメージをまとった不可能な享楽から制御可能な「エンジョイ」としての享楽への移行》(河野一紀、書評)などと要約できることを強調しているらしいが、ーーボクはネット上に落ちている序章しか読んでいないがその「剰余享楽」を前面に出した叙述においてはたしかにそう読めるーー、もしこれが彼の享楽の捉え方全般なら救い難い誤謬だね。そもそも「享楽の社会論」とは「剰余享楽の社会関係論」にしなければならない、《剰余享楽は言説の効果の下での享楽放棄の機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ]》(Lacan, S16, 13  Novembre  1968)。そしてラカンの言説とは「社会的関係(lien social) 」(フロイトの「感情的結びつき(Gefühlsbindungen)」)のこと。さらに剰余享楽[plus-de-jouir]の« plus » には、「享楽はもはや全くない[« plus du tout » de jouissance]」の意味がある、ーー《剰余享楽は…可能な限り少なくエンジョイすること…最小限をエンジョイすることだ[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ]》(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)



話を戻せば、ま、問われれば答えるぐらいはするが、もう繰り返しなんだな、新しいことはもうないよ。


で、ボクの知る限りでの最後のラカンの享楽の定義はこうだ。

享楽は去勢である[la jouissance est la castration.](Lacan parle à Bruxelles, 26 Février 1977)


で、この前年の定義は次の通り(詳細➡︎参照)。


享楽は現実界にある。現実界の享楽はマゾヒズムから構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert, ](Lacan, S23, 10 Février 1976)


この「享楽は去勢」と「享楽はマゾヒズム」はどっちも同じことで、享楽とは「去勢された母なる自己身体」を取り戻そうとする生きている存在には不可能な「反復強迫=死の欲動」のこと(フロイトにおけるマゾヒズムの定義は「自己破壊欲動=死の欲動」)。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいないこと。〔・・・〕そればかりか、出産行為はそれまで一体であった母からの分離として、あらゆる去勢の原像である[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, …ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. ](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)



この去勢=喪失をフロイトはトラウマとも表現しているが、ラカンにおいても去勢=喪失=穴(トラウマ)が享楽の定義[参照]。そしてこの穴を穴埋めするのが剰余享楽ーーフロイトの「欲動の昇華」と等価ーーだが、穴は充分には埋まらず必ず残滓があるーー死の欲動という享楽の残滓があるーーというのがフロイトラカン理論の核。



要するに去勢がフロイトラカンにおける唯一の真理だよ


要するに、去勢以外の真理はない[En somme, il n'y a de vrai que la castration  ](Lacan, S24, 15 Mars 1977)


去勢された=喪われたオッカサマの身体が唯一の真理だ。


去勢は享楽の名である[la castration est le nom de la jouissance ] (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

モノは享楽の名である[das Ding est tout de même un nom de la jouissance](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


この2010年前後のジャック=アラン・ミレールの発言は1980年代後半に既にマテームで示されている。




すなわちモノとは去勢された母(母なる身体)、去勢された享楽だ(繰り返せば、去勢=喪失=トラウマ)。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


フロイトのモノが核心なのは前期ラカンから変わっていない。


モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


すなわち究極の欲動の対象は母胎だ。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[ Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



別の言い方をすれば、去勢の原像が《喪われた子宮内生活[verlorene Intrauterinleben]》(フロイト、1926)である一方で、斜線を引かれていない「享楽の原像」とはフロイトの「原ナルシシズムの原像」(子宮内生活)であり、事実上これが「エスの原像」だ、《原初はすべてがエスであった[Ursprünglich war ja alles Es]》(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年)


子宮内生活は、まったき享楽の原像である。原ナルシシズムはその始まりにおいて、自我がエスから分化されていない原状態として特徴付けられる。

[La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite. Le narcissisme primaire est, dans ses débuts, caractérisé par un état anobjectal au cours duquel le moi ne s'est pas encore différencié du ça.  ](Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007)

子宮内生活は原ナルシシズムの原像である[la vie intra-utérine serait le prototype du narcissisme primaire ](Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)


※参照➡︎「傷つけられていない享楽



以上。