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2022年5月13日金曜日

痛み[douleur]と苦痛[souffrance]の相違

 


1969年のラカンは享楽の根はマゾヒズムだと言っている。


フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)


これはフロイトの痛みのなかの快[Schmerzlust]を享楽としたのである。


痛みのなかの快はマゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)


ところで1966年のラカンは享楽は痛み[la douleur]の水準にあると言っている一方で、享楽は苦痛のなかの快[ plaisir dans la souffrance]ではないと言っている。

疑いもなく、痛みが現れはじめる水準に享楽はある[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d’apparaître la douleur](Lacan, LA PLACE DE LA PSYCHANALYSE DANS LA MÉDECINE, 1966)

マゾヒストは決して次のことによって定義されるものではない、すなわち苦痛や苦痛のなかの快、快のための苦痛ではない[le masochiste ne peut aucunement être défini : ni souffrir, à avoir du plaisir dans la souffrance, ni souffrir pour le plaisir.]

マゾヒストを唯一明示しうるのは、対象aの機能を持ち出す以外ない。それがまったき本質である。私は信じている、重要なのはかつて原ナルシシズムのため確保されていた場処に目星をつけなければならないと。On ne peut articuler le masochiste qu'à faire entrer…que la fonction de l'objet(a) en particulier y est absolument essentielle. Je crois que l'important  de ce que…peut être repéré à la place anciennement réservée au narcissisme primaire. (Lacan, S13, 22 juin 1966)


上にあるようにマゾヒズムを対象aと同時に原ナルシシズムとも結びつけている。


原ナルシシズムとは何かについては、「傷つけられていない愛=傷つけられていない享楽」に記したが、ここでは簡単に二文だけ抜き出そう。


子宮内生活は原ナルシシズムの原像である[la vie intra-utérine serait le prototype du narcissisme primaire ](Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)

子宮内生活は、まったき享楽の原像である。原ナルシシズムはその始まりにおいて、自我がエスから分化されていない原状態として特徴付けられる。

La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite. Le narcissisme primaire est, dans ses débuts, caractérisé par un état anobjectal au cours duquel le moi ne s'est pas encore différencié du ça.  (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007)


マゾヒズムが対象aの機能にかかわるというときの対象aとは、何よりも喪われた対象=享楽の対象である。


喪われた対象aの形態…永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である[la forme de la fonction de l'objet perdu (a), …l'origine…il est à contourner cet objet éternellement manquant. ](Lacan, S11, 13 Mai 1964)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


そして究極の喪われた対象は胎盤とされている。


例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


この意味で「原マゾヒズム=原ナルシシズム」という享楽の究極の対象は喪われた母胎ということになる。


人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



………………


なおラカンが、享楽は痛み[la douleur]の水準にあり、享楽は苦痛のなかの快[ plaisir dans la souffrance]ではないと言っていることに関する痛み[la douleur]と苦痛[la souffrance]についてはミシェル・シュネデールの文を掲げておこう。


痛みは明らかに苦痛と対立する。痛みは、消滅の・喪われた言語の、異者性・親密性・遠くにあるものの顔あるいは仮面である[la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, ou les masques, de la disparition, du langage perdu, de l'étrangeté, de l'intime, des lointains.](ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』Michel Schneider La tombée du jour : Schumann 2005年)


痛みとは異者が回帰することである。異者はラカンにとって対象aであり、不気味ななかの親密である。➡︎不気味なものの永遠回帰



最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある[le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. ]〔・・・〕


痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦痛だけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。


この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。


音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)



フロイトラカンにおいて不気味な異者は究極的に母胎だが、その究極性を外せば、不気味な異者の回帰とはシュネデールの言う、《おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもない》であるだろう。


初期フロイトは次のように言った、《異者は、心的痛みを呼び起こし、レミニサンスを引き起こす[Fremdkörper…erinnerter psychischer Schmerz …leide an Reminiszenzen.]》(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)。


少なくとも冒頭の《痛みのなかの快はマゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde]》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)における痛み[Schmerz]はフロイトにおいて多義的な含意があることに注意しなければならない。


現代主流ラカン派ではラカンの享楽の表向きの定義ーー《現実界の享楽はマゾヒズムから構成されている[Jouissance du réel comporte le masochisme,]》(Lacan, S23, 10 Février 1976)ーーに反して固着概念が前面に出ている。《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours.》 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)。


これはおそらくマゾヒズム概念の捉え直しにも関わる、《無意識的なリビドーの固着は…性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes]》(フロイト『性理論三篇』第一篇, 1905年)。そして固着とは異者に直接に関係するのである、《固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)




さらに二文引いておこう。


ところであなたはどう思うだろうか、私のすべての新しいヒステリー 前史理論はすでに知られており、数世紀前だが何百回も出版されているという見解について。あなたは覚えているだろうか、私がいつも言っていたことを。中世の理論、強迫観念の霊的法廷は、私たちの異者理論[Fremdkörpertheorie]と意識の分裂と同一だと。

Was sagst Du übrigens zu der Bemerkung, daß meine ganze neue Hysterie-Ur-geschichte bereits bekannt und hundertfach publiziert ist, allerdings vor mehreren Jahrhunderten? Erinnerst Du Dich, daß ich immer gesagt, die Theorie des Mittelalters und der geistlichen Gerichte von der Besessenheit sei identisch mit unserer Fremdkörpertheorie und Spaltung des Bewußtseins?  (フロイト、フリース宛書簡、Freud: Brief an Wilhelm Fließ vom 17 Januar 1897)


疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象である。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察される。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかである[Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, …Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland] ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)