このブログを検索

2022年5月13日金曜日

ネオコン信者たちによるイジメ

 ははあ、J SATOさん、さっそく苛められてるんだなあ、この今になっても。



大本営発表信者たちの「陰謀論」レッテル貼りってのはいつまで続くんだろうねえ、キミらこそネオコンの「沈黙の陰謀」にコロリとやられちまってる可能性を微塵も疑う力がない精神ってのはなあ、どうも生き辛い日本言論界だなあ、こういう連中がいまだウヨウヨしてんだから。



8年前に侵略されて以来しっかり8年間更なる侵略に備えたという話が、真逆の解釈になるという、陰謀論の恐ろしさ」ってマガオで言ってんだなあ、このひと。ま、しょうがないか、国際政治学者連中がそもそもそうなんだから➡︎国際政治学者ウンコちゃんへのお願い


とはいえローマ教皇でさえ、ウクライナ戦争の原因は《ロシアの玄関でNATOが吠え続けたこと[l’abbaiare della Nato alla porta della Russia]》(2022年5月4日)と言うようになったんだからさ、信仰で固くなった頭にもせめて2割ぐらいはこういう見解を入れ込む余地はないもんかね・・・


ナインダロウヨ、ワカッテルサ、信者とはそういうもんさ



信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten] をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)