左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である[Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse](ドゥルーズ『アベセデール』1995年) |
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今更だが、あらためてこのドゥルーズの左翼と右翼の定義はとてもいい。左翼は究極的には世界を考えることだ、世界秩序を、人類愛を。右翼は究極的には自分自身を考えることだ、自己の利益を、自己愛(エゴイズム)を。
国際秩序や平和構築を言い募る「浅薄な」国際政治学者が「左翼」を罵倒するのをしばしば見るが、この定義なら、彼らは自ら知らぬままタテマエとしての左翼なのである。
ところでフロイトにおいて右翼的自己愛のさらに底には自体性愛[Autoerotismus]がある。 |
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自体性愛的欲動は原初的である[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年) |
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自体性愛とは何よりもまず自己身体愛のことである、ーー《自体性愛。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人物に向けられたものではなく、自己身体から満足を得ることである[Autoerotismus. …als den auffälligsten Charakter dieser Sexualbetätigung hervor, daß der Trieb nicht auf andere Personen gerichtet ist; er befriedigt sich am eigenen Körper](フロイト『性理論三篇』第2篇、1905年)。 対象愛あるいはその「方言」としての自己愛の底には、自体性愛、つまり自己身体への固着がある。
この自体性愛がラカンの享楽である。 |
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享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme]. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
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ーー《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. 》(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) とはいえフロイトラカンにおいて、究極の「自体性愛=自己身体の享楽」とは実は喪われた自己身体ーー出生とともに喪われた母の身体ーーであり、これを異者身体[Fremdkörper]とも呼ぶのだが(あるいは「母の身体への固着」と呼んでもよい)、ここではそこまでの話には触れず、図だけ示しておく(参照)。 繰り返せば、ここでは「究極の自己身体=喪われた母の身体=異者身体」をかすかには念頭に置きつつも、巷間での通常の意味での自己身体を基準にして話をする。 例えばセミネールⅨのラカンは《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》と言っているが、これが自体性愛のことである。
フロイトは、病気になれば他者への愛などどうでもよくなると言っている。
病気だけではない、空腹になっても自己身体、その飢えだけが重要になる。これは誰もが認めざるを得ない人間の原像だろう。 この自己身体が人の原点という意味で、人はホンネのところではみな右翼である。左翼とはタテマエである。 |
右翼とはホンネを剥き出しにして生きている人間、左翼とはホンネを抑圧してタテマエで生きている人間である。タテマエの別名は偽善。
柄谷と浅田は1994年にこう言っている。
柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。 むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。 浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕 日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年) |
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このいまの世界は「日本化」してしまったと言いうる。例えば、コロナ危機でどの国もタテマエの衣を脱ぎ捨てるのがはっきりした。 |
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私にとって最も印象的だったのは、2020年の3月、ドイツやフランスが、コロナウイルスの感染拡大を受けて、「ヨーロッパの連帯の精神に反して」マスクなどの輸出制限を一時的にせよ決めたことだ。イタリアやスペインなどが困惑した。当時困惑した国側から見れば、これは容易に忘れ難い事態だろう。その後遺症はコロナ終結後も消滅するようには思えない。人権は偽善、連帯は偽善であり、真の危機に陥ればたちまち崩れ去る。 そしてウクライナ・ロシア戦争でそれがいっそうはっきりした。ロシア人や東ウクライナに住むロシア系住民への人種差別、虐待虐殺を平然と支持し続ける西側諸国がある。
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➡︎邦訳動画
この演説の核心は、西側諸国のやっていることは「人種差別と何が違うのか?」という問いかけである。
いままで「ネトウヨ」と貶められていた諸君は安堵していることだろう。世界のほとんどはネトウヨ諸君と同じ穴の狢であることが瞭然としたのだから。とはいえこのままでは世界は崩壊するだろう、なんらかのタテマエ=偽善がないままなら。
文明とは左翼的偽善システムである。非文明とはなによりも自己利益が肝心の右翼的露悪システムである。現在の新自由主義なる「市場原理主義社=世界資本主義」社会はまがいようもなく非文明社会である。
(資本システムにおいて)支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである[Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham.]〔・・・〕 ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。 Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital」1867年) |
ベンサム主義とは、《私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである[daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>)](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1846 年) もちろんこのベンサム主義はロシアや中国もまったく免れていない。両国とも事実上、右翼国家である。 |
中露は自らが右翼であることを知らないが、右翼である。 |
彼らはそれを知らないが、そうする[ Sie wissen das nicht, aber sie tun es](マルクス『資本論』第1巻「一般的価値形態から貨幣形態への移行」1867年) |
とはいえ、右翼症状は西側諸国のほうがはるかに酷い。ここではそう言っておく。日本に限定して言っても、リベラル学者や主流メディアはほとんどすべて、その自らのホンネである「右翼」を露出させた。 |