いやあほんとにすごいよ、伊藤比呂美の「とてもたのしいこと」は。
詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.] (Lacan, S24, 17 Mai 1977) |
詩は身体の共鳴が表現される[la poésie, la résonance du corps s'exprime] (Lacan, S24, 19 Avril 1977) |
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身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
欲動のリアルがある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
ラカンのいう穴の効果とは「異物の効果=異者としての身体の効果」のことだが、伊藤比呂美はそのことまで体感している。
わたしの子宮と臍帯でつながってるものはあくまでも異物であって胎児でなはないという認識を持ち続けている。〔・・・〕 その異物がおナカのなかで動くようになった。〔・・・〕 その動きを感じる度にわたしはオナラをしたい。わたしはウンコをしたいのかもしれない。(伊藤比呂美「蠕動」) |
こういったことを知っている女には男はけっしてかなわないね、ーー《子供はもともと母、母の身体に生きていた[l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère] 。〔・・・〕子供は、母の身体に関して、異者としての身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である[il est, par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses de son chorion dans …l'utérus]》(Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体[Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年) |
われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](ラカン、S23、11 Mai 1976) |
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エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物=異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
いくら翻訳詩にもっとエロいのがあったって、それは意味の効果に傾いてるからな、あの母語の効果としての「濡れた感覚」は稀有の出会いだったし、今でもそうあり続けている。
人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。 それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。 |
いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。 |
(中井久夫「訳詩の生理学」1996年初出『アリアドネからの糸』所収) |
この中井久夫の言ってることは、芥川が次のように言ってることだ。 |
僕等は、――少くとも僕は紅毛人の書いた詩文の意味だけは理解出来ないことはない。が、僕等の祖先の書いた詩文――たとへば凡兆の「木の股のあでやかなりし柳かな」に対するほど、一字一音の末に到るまで舌舐めずりをすることは出来ないのである。(芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」) |
そしてこれこそ「穴の効果=身体の効果=異者身体の効果」だ。
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ](Lacan, S20. 15 Mai 1973) |
私は詩人ではない、だが私は詩である[je ne suis pas un poète, mais un poème.](Lacan, AE572, 17 mai 1976) |
ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない[Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète]. (Lacan, S24. 17 Mai 1977) |
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あらゆる意味での肝は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper]だよ、《異物=異者身体は原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)。
疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年) |
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われわれはこの異者を巧みに表現した詩人を幸福にももっている。
「男の言葉を女の言葉に/近づけることを考えなければならない」(西脇順三郎「第三の神話」)。不幸にも最近の女は、意味過剰の男の言葉で書こうとしている。