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2022年6月7日火曜日

戦争実施要項の第三項

 蚊居肢子は、不遜な言い方をさせていただければ、そのあたりのチョロチョロした学者を相手にするつもりは毛ほどもない。


学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない[Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen:] (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)



軽蔑している相手をマガオで扱うのは、はしたないことだから。



攻撃する者の力の強さを測定するには、彼がどんな敵を必要としているかということが一種の尺度となる。ひとの生長度を知るには、どれほど強力な敵対者をーーあるいは、どれほど手ごわい問題を、求めているかを見ればよい。つまり、戦闘的な哲学者は、問題に対しても決闘を挑むのである。その場合かれがめざすことは、抵抗するものに勝ちさえすればいいということではなく、おのれのもつ力と敏活さと武技の全量をあげて戦わねばならないような相手ーーつまり自分と対等の相手に打ち勝つことである。…敵と対等であることーーこれが誠実な決闘の第一前提である。相手を軽視している場合、戦いということはありえない。相手に命令をくだし、いくぶんでも見下している場合には、戦うにはおよばない[Wo man verachtet, kann man nicht Krieg führen; wo man befiehlt, wo man etwas unter sich sieht, hat man nicht Krieg zu führen.]

わたしの戦争実施要項は、次の四箇条に要約できる。


第一に、わたしは勝ち誇っているような事柄だけを攻撃するーー事情によっては、それが勝ち誇るようになるまで待つ。


第二に、わたしはわたしの同盟者が見つかりそうにもない事柄、わたしが孤立しーーわたしだけが危険にさらされるであろうような事柄だけを攻撃する。わたしは、わたしを危険にさらさないような攻撃は、公けの場において一度として行なったことがない。これが、行動の正しさを判定するわたしの規準である。


第三に、わたしは決して個人を攻撃しないーー個人をただ強力な拡大鏡のように利用するばかりである。つまり、一般に広がっているが潜行性的で把握しにくい害悪を、はっきりと目に見えるようにするために、この拡大鏡を利用するのである。わたしがダーヴィット・シュトラウスを攻撃したのは、それである。より正確にいえば、わたしは一冊の老いぼれた本がドイツ的「教養」の世界でおさめた成功を攻撃したのであるーーわたしは、いわばこの教養の現行犯を押さえたのである……。わたしが、ワーグナーを攻撃したのも、同様である。これは、より正確にいえば、抜目のない、すれっからしの人間を豊かな人間と混同し、末期的人間を偉大な人間と混同しているわれわれの「文化」の虚偽、その本能の雑種性を攻撃したのである。


第四に、わたしは、個人的不和の影などはいっさい帯びず、いやな目にあったというような背後の因縁がまったくない、そういう対象だけを攻撃する。それどころか、わたしにおいては、好意の表示であり、場合によっては、感謝の表示なのである。わたしは、わたしの名をある事柄やある人物の名にかかわらせることによって、それらに対して敬意を表し、それらを顕彰するのである。(ニーチェ『この人を見よ』)



仮に「芸能マネージャー」池内恵やら「芸能人」小泉悠やら、さらに芸人を担ぎ上げる、いっそうマヌケの国際政治学者やら防衛省の木瓜の花を扱うことがあるなら、それは戦争実施要項の第三項に相当するからである。


もっともそれとは別にいくらか「健康のために」扱う場合がないではない。


抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。Der Einwand, der Seitensprung, das froehliche Misstrauen, die Spottlust sind Anzeichen der Gesundheit: alles Unbedingte gehoert in die Pathologie.(ニーチェ『善悪の彼岸』154番、1886年)



オワカリダロウカ? 重要なのは軽蔑する敵をもってはならぬことである、ーー《君たちは、ただ憎むべき敵をのみもたねばならない。軽蔑すべき敵をもってはならない[Ihr dürft nur Feinde haben, die zu hassen sind, aber nicht Feinde zum Verachten. ]》(ニーチェ『ツァラトゥストラ第1部』「戦争と戦士」Vom Krieg und Kriegsvolke、1883年)


これは生の芸術家にとっての基本である。



編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」1947年)



学者など相手にせず、女を相手にすべきである。あれこそ真に敬すべき憎悪の対象なのだから。




ーー《ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない[Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ]》(ニーチェ、遺稿、1887年秋)


わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。

Hat man Ohren für meine Definition der Liebe gehabt? es ist die einzige, die eines Philosophen würdig ist. Liebe - in ihren Mitteln der Krieg, in ihrem Grunde der Todhass der Geschlechter. -(ニーチェ『この人を見よ』1888年)


もっとも最近の女たちの不幸は、男たちが憎悪すべて敵ではなく軽蔑すべき敵になり下がってしまったことである。女たちは相手にすべき尊敬する敵がいなくなってしまって途方に暮れている。彼女たちはせいぜい「健康のために」男を嘲弄の対象にしているだけである。これは蚊居肢子が学者を相手にするのと構造的に同じ現象であり、不幸極まりない。