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2022年7月13日水曜日

きみはチャーミングだね

 プルーストから何を読もうと勝手だし、バルトが言っているが、プルーストには何でもある。24歳のベケットのように読む方法もあるし、ひょっとして甘美な恋の物語として読む方法だってある。


たしかに文学全体を見渡しても、孤独と、ひとびとが愛と呼んでいる責め合いとのあの砂漠、それをあのように悪魔的な悪練さをもって持ち出し展開させた研究はない。プルーストを読んだあとでは、『アドルフ』も、せっかちな滴り、唾液分泌過度の疑似叙事詩、涙を流すカンプルメール夫人〔・・・〕に過ぎない。(サミュエル・ベケット『プルースト』1931年)


個人によっても違うし、同じ主体でも時と場合によって違う。


プルーストは最後の巻で繰り返し強調している。



作家の著書は一種の光学器械[instrument d'optique]にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。(プルースト『見出された時』)

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋[l'opticien de Combray]が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡[verres grossissants]でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段[le moyen de lire en eux-mêmes]を提供する、そういうものでしかないだろうから。(プルースト『見出された時』)


さらに《われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。Ne vient de nous-même que ce que nous tirons de l'obscurité qui est en nous et que ne connaissent pas les autres. 》(プルースト「見出された時」)。つまり偉大な書物は《表面だけの自我[un moi superficiel]》(「ゲルトマントのほう」)ではなく、自分の暗所を読むためのものだ。



私が「心の間歇」を中心にして読むようになったのは50歳を過ぎてからに過ぎない。またそのうち変わるかもしれないよ。


若いときは、ベケットのような「天才」でなければ、「きみはチャーミングだね」でいいさ。


言葉の斜線的なものは、直っ直ぐなものに戻さなければならない。だから「あなたはチャーミングだ」は、「君を抱いたら気持ちよくなるよ」に均しい。The verbal oblique must be restored to the upright : thus 'you are charming' equals 'it gives me pleasure to embrace you.(ベケット『プルースト』p101 大貫三郎訳、原著1931年)


いうまでもなく、真の生活を再創造すること、過去の印象を若がえらせることは、大きな誘惑であった。しかしそのためにはあらゆる種類の勇気、感傷を克服する勇気さえ、必要なのであった。なぜなら、それは、第一にわれわれのもっとも親しい幻影をすてることであり、またわれわれが自分で苦労してつくりあげてきたものの客観性を信じるのをやめることであり、ついで、「彼女はほんとに魅力的だった elle était bien gentille »」などといって性懲りもなく自分をごまかさないで、逆に、「彼女を抱くことに快感をもった j'avais du plaisir à l'embrasserにずばり改めるべきだからである。なるほどそのような恋の時間に私が感じとったものは、すべての男たちもまたそれを感じとるものなのだ。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)



長いあいだ未発表だったベケットの『心理学ノート Psychology Notes 』(1934/1935)   の最後の頁は、オットー・ランクの次の文が引用されていて、最近それをテーマにする研究者が出てきたけどさ。プルーストのマドレーヌだってフィリップ・ルジェンヌが記しているように、オットー・ランク的読み方ができる相があるってだけだ。



ベケットは『心理学ノート』の最後のページをオットー・ランクの『出産外傷(出生外傷)』にあてている。『名づけえぬもの』の子宮への固着とこのノートとの間には、おそらく関係があるのだろう。


《神話やおとぎ話にも描かれている、すべての幼児理論に共通する特徴は、女性器の否定があり、それは出産外傷が抑圧されるためである。出生の器官としての女性器の機能に対する苦痛に満ちた固着は、成人の性生活におけるすべての神経症的障害、心的インポテンツ、および女性の冷感症の底にある》(TCD MS 10971/8/35)。


Beckett devotes the last pages of his Psychology Notes to Otto Rank's The Trauma of Birth. There is a probable connection between the Unnamable's womb fixation and these notes: 


Common characteristics of all infantile theories, also illustrated in myths & fairy tales, is the denial of the female sex organs, due to repression of birth trauma experienced there. Painful fixation on this function of the female genital as organ of birth lies at the bottom of all neurotic disturbances of adult sex life, psychical impotence as well as feminine frigidity (TCD  MS 10971/8/35).

 (A Genetic Study of Samuel Beckett's Creative Use of His 'Psychology Notes' in The Unnamable, Reza Habibi 2015)







ワルカッタネ、唾液分泌過剰の水っぽいミルク的読み方をバカにしたように見えたら。



愛という語[Wort »Liebe«]…この語ががこれほど頻繁にくりかえされてしかるべきものとは思えなかった。それどころか、この二音綴は、まことにいとわしきもの「recht widerwärtig]と思えるのだった。水っぽいミルクとでもいうか、青味を帯びた白色の、なにやら甘ったるいしろもののイメージに結びついていた [eine Vorstellung verband sich für ihn damit wie von gewässerter Milch, - etwas Weißbläulichem, Labberigem](トーマス・マン『魔の山』1924年)


ボクも二十歳前後に「花咲く乙女たちのかげに」を湿っぽい大学図書館で初めて読んだときは、水っぽいミルク的に読んだよ。そばに座ってる女の子が気になって仕方がなかったね、ーー《隣のテーブルにいる女の匂[l'odeur de la femme qui était à la table voisine]〔・・・〕それらの顔は、ひらかれない扉であった[ces visages restaient fermés]。しかし、それらの顔が、ある価値をもったものに見えてくるためには、それらの扉がやがてひられるであろうことを知るだけで十分なのであった[ c'était déjà assez de savoir qu'ils s'ouvraient]》(「花咲く乙女たちのかげに」)



私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、

「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」Vous savez, si vous voulez, nous pouvons lutter encore un peu. 


おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 井上究一郎訳)


で、死の道とも思われた一つの道をかきわけたさ


ああ、私はルーサンヴィルの楼閣に哀願したけれども空しかったーーコンブレーの私たちの家のてっぺんの、アイリスの香がただよう便所にはいって、半びらきの窓ガラスのまんなかにその尖端しか見えないルーサンヴィルの楼閣に向って、その村の女の子を私のそばによこしてほしい、とたのんだけれども空しかったーーそしてそこにそうしているあいだに、あたかも何か探検をくわだてている旅行者か、自殺しようとする絶望者のような、悲壮なためらいで、気が遠くなりながら、私は自分自身のなかに、ある未知の道、死の道とも思われた一つの道をかきわけていた、そしてそのあげくは、私のところまで枝をたわめている野性の黒すぐりの葉に、あたかもかたつむりが通った跡のように見える、自然に出たものの跡が、一筋つくのであった。je me frayais en moi-même une route inconnue et que je croyais mortelle, jusqu'au moment où une trace naturelle comme celle d'un colimaçon s'ajoutait aux feuilles du cassis sauvage qui se penchaient jusqu'à moi.(プルースト「スワン家のほうへ」)