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2022年7月5日火曜日

自己宮廷政治の参謀本部君へ

 なんだ、相手してほしいのか、そこの「他者なき」物理学徒のキミ? 前に何度かもうやめとけよ、と忠告したのに。

ところで貴君の口癖「参謀本部」とか「宮廷政治」というのはどこで覚えて込んできたのかい? 「自己を語る遠まわしの方法」丸出しに見えるけどさ、それ。それだけはもういい加減やめといたほうがいいよ、な。

自己意識ってのはそもそも宮廷政治だよ。わかるかい、これ?


誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


デカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。…夢をみているのではないかという疑いは、『方法序説』においては、自分が共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。…疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)



自己宮廷の外部に出ようとしなかったら、非精神だよ。貴君には他者がまったくないようだけどさ、自己宮廷の慣習や先入観の参謀政治ばっかりで。何よりもまずはそれをやめにしないとな。



一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命令する者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗 などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになる。しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、意志するということに関してまつわりついてきたのである。


insofern wir im gegebenen Falle zugleich die Befehlenden und Gehorchenden sind, und als Gehorchende die Gefuehle des Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens, Bewegens kennen, welche sofort nach dem Akte des Willens zu beginnen pflegen;insofern wir andererseits die Gewohnheit haben, uns ueber diese Zweiheit vermoege des synthetischen Begriffs "ich" hinwegzusetzen, hinwegzutaeuschen, hat sich an das Wollen noch eine ganze Kette von irrthuemlichen Schluessen und folglich von falschen Werthschaetzungen des Willens selbst angehaengt, - dergestalt, dass der Wollende mit gutem Glauben glaubt, Wollen genuege zur Aktion. (ニーチェ『善悪の彼岸』第19番1886年)



でも貴君が連発して貼り付けている写真のなかにはいいものがあるよ。なぜまったくファボなしリツイートなしなのか不思議なくらい。女の影だな、とくに。ヒシヒシと伝わってくるね、哀愁が。もうアラフォーだろ、いやそれ以上いってるのかね。早く女という他者見つけろよ、そうしたら自己宮廷政治から脱却できるよ。いや逆に自己参謀やめたら自然に見つかるかもよ、な、ガンバレ!