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2022年7月10日日曜日

あんなに長いあいだ失っていた当時の自我は、いまふたたび私に非常に近くせまった

 なんか言ってるけど、前々回リンクした「心の間歇文献」読んだ?

《あんなに長いあいだ失っていた当時の自我は、いまふたたび私に非常に近くせまった[Le moi que j'étais alors, et qui avait disparu si longtemps, était de nouveau si près de moi ]》。これが「心の間歇」だよ。


で、レミニサンスとは外傷性フラッシュバックだ。


遅発性の外傷性障害がある。〔・・・〕これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』)

「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年『日時計の影』所収)



ーー心の間歇とは事実上フラッシュバックだ。ニーチェの神々しいトカゲ[göttliche Eidechsen ]やバルトのゆらめく閃光 [un éclair qui flotte][参照]だって、心の間歇につなげたいぐらいだね、少なくともボクにレミニサンスが起こるときはこの表現がピッタリくるな。


で、これが異物=異者の回帰、つまり痛みの回帰。《異者はかつての少年の私だった[l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors]》(「見出された時」)。かつての少年の私が異者として回帰する。「シャンゼリゼの雪」の箇所の少年も同様ーー《私がもしちがったときのある事物をふたたび目に見るとしたら、そのとき立ちあがるのは、また一人の年少者であるだろう[Que je revoie une chose d'un autre temps, c'est un autre jeune homme qui se lèvera. ]》


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


ーー《最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある。le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. 》(Michel Schneider La tombée du jour : Schumann)



痛み[Douleur]はただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』2005年)


異者の回帰=痛みの回帰レミニサンスだ。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


でこれが享楽の回帰。


疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れる始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


フロイトの記述において異者とは「トラウマ=身体の出来事=自我への傷」。これは敢えて結びつけなかったが、ジュネ=ジャコメッティの傷でもありうる。


美には傷以外の起源はない[Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure]。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)


異者の回帰とは、少なくともラカン派では《傷つけられた享楽 [jouissance blessée](Colette Soler, Les affects lacaniens 2011)の回帰だ。喪われた享楽の回帰と言ってもよい。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)



失われた時の回帰はここにある。バルトは身体の出来事の記憶(=トラウマの記憶)を「身体の記憶」と言った。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)


ラカンの身体自体、トラウマ=異者としての身体のこと。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](ラカン、S23、11 Mai 1976)



ということは精神分析理論的にこうなるが、芸術や美の感動ってのは、身体の出来事の回帰じゃないのかい、ということだよ、プルーストの問いは。ジュネ=ジャコメッティだって同じことを言ってるように見えるね。


このあたりはいくらでもあるけどな、芋蔓式に。



私に快楽を与えたテクストを《分析》しようとする時、いつも私が見出すのは私の《主体性》ではない。私の《個体》である。私の身体を他の身体から切り離し、固有の苦痛、あるいは、快楽を与える与件である。私が見出すのは私の享楽の身体である。


Chaque fois que j'essaye d'"analyser" un texte qui m'a donné du plaisir, ce n'est pas ma "subjectivité" que je retrouve, c'est mon "individu", la donnée qui fait mon corps séparé des autres corps et lui approprie sa souffrance et son plaisir: c'est mon corps de jouissance que je retrouve. (ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年)


美的感動を真に分析したら「享楽の身体」、つまりレミニサンスする「異者身体」に行き着くんじゃないかね?


以上。