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2022年7月10日日曜日

ほの暗い廊下の奥のイチジクの実

 例えば次の吉行淳之介の文は明らかにレミニサンスだよ。


長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくことがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

 

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』1964年)


フロイトラカンが区別したレミニサンスと想起の違いは、「身体の記憶の回帰」と「言語内の記憶の回帰」の相違。幼少年期の言語化されていない匂の回帰とは身体の記憶の回帰でありレミニサンス。これをプルーストは「超時間」的と言った。



そのとき、私のなかで、そんな印象を味わっていた存在は、その印象がもっている、昔のある日といまとの共通域、つまりその印象がもっている超時間[extra-temporel]の領域で、その印象を味わっていた(プルースト「見出された時」ーー身体の壺に封じこめられた過去の喜びや痛みの回帰



誰にでもあることの筈だ、その強度の相違、頻度の相違は別にして。


より病因的な回帰現象は次の中井久夫の記述にある。



たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」初出1997年『アリアドネからの糸』所収)

笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった……(中井久夫「知命の年に」初出1984年『記憶の肖像』所収)


これは阪神大震災被災を契機にかつてのトラウマが回帰したのであり、フロイトが記述している現象である。


経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ 。〔・・・〕そして自我が寄る辺なき状況が起こるだろうと予期する時、あるいは現在に寄る辺なき状況が起こったとき、かつてのトラウマ的出来事を想起させる。

eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; …ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, oder die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)


小学生時代のトラウマの回帰の底にはさらに幼少期のトラウマの回帰もありうる。これも中井久夫は記している。


最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)



これらは病因性の強いトラウマの回帰の記述だが、喜ばしいトラウマの回帰もある。トラウマとは「身体の出来事」のことなのだから。


話を戻せば中井久夫は次のような記憶のレミニサンスがあったそうだ、「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」(中井久夫「発達的記憶論」)


「ガラスの器」「イチジクの実」「ほの暗い廊下」とあって意味深な記憶の回帰だが、ここでは余分な解釈を示さないでワカルヒトニハワカルとだけ言っておこう。


芸術体験でもこういった《時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしている》出来事の回帰がときに起こらないかね。


最近でもルシール・リシャルドーを聴いてこれが起こったんだな、「ほの暗い廊下の奥のイチジクの実」まで行ったよ。


………………

ルシール・リシャルドー(Lucile Richardot)。ラファエル・ピション(Raphaël Pichon)2020年マタイのルシール。以前に「この裏切り者め」の箇所を挙げたが、あれ以来しつこく彼女の声を聴いている。このところはゴルダゴのレチタティーヴォとそれに引き続く名高い「何処へ」の合唱が入る部分の彼女の渋い声にゾッコンだ。ヴィオラダガンバの声をした女。


02:16:24 - Ach Golgatha, unselges Golgatha | RECITATIVE (alto



ーーいやあたまらん、この性格の悪い感じ。

ちなみにカール・リヒター1958の同じ箇所。


◼️

カール・リヒター、マタイゴルダゴ 1958



ーーこの「何処へ」の突き刺すような合唱に高校時代痺れまくった。この箇所だけでなく、私が新しい指揮者でマタイを聴くときは、いずれの箇所もその裏で常にリヒター指揮のマタイが鳴っている。



ルシールは27歳までジャーナリストをやっていた。ボクが惚れる歌手は、プロフェッショナルのにおいがあまりしない人だ。例えばベルナルダ・フィンクBernarda Fink。ベルナルダは歌手になるつもりはなかったと言っている(彼女は22歳まで歌を学んでいない)。



ルシールのヨハネ「すべてが果たされた Es ist vollbracht」も絶品だ。


◼️

Bach's St John Passion - Es ist vollbracht - Lucile Richardot & Le Concert Étranger, 2014