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2022年8月16日火曜日

鳥がいっせいに飛び立った後の庭のように

 


アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩


オディッセアス・エリティス  中井久夫訳



太陽が初めて腰をおろしたところ、

時が処女の瞳のように開いたところ、

風がハタンキョウの花びらを雪と散らしたところ、

騎兵が草の葉を白く光らせて駆け抜けていったところ、


端正なスズカケの樹冠がしなうところ、

高く掲げた長旗がはためいて、水と地とに尾を揺らすところ、

砲身の重さに背が曲がるのではなく、空の重みに、世界の重みに背がしなうのである。


世界は光る、きらりと、

朝まだき露の滴が山裾の野に光るように。


今、影が伸びる、神のため息のように、長く、いっそう長く。


今、苦悶が総身に覆いかぶさり、

骨の浮いた手が、花を摘んでは握りつぶす、一本 また一本と。

水無瀬の河の涸れ谷に憂いのみ多くして、歌は死に、声は絶え、

居並ぶ岩の列は髪ひややかなる僧のごとく、声を殺して

たたなわる原野を横ざまに切る。


身も心もこごえる冬。不運に不意を打たれる予感。

猪背〔ししせ〕の虚国〔むなくに〕の山並のたてがみ。


空の高みに禿鷹は舞う、高く高く、空の小さなパン屑を取り合って。




今、動かない髪の毛を風が静かになぶる。

忘却の枝を左の耳に刺して、 きみは焦げたマントの上に横たわる

鳥がいっせいに飛び立った後の庭のように、

暗闇の中で立ち往生した獣のように、

止まってしまった天使の時計のように。

睫毛があるかなきかのさようならをささやき、当惑がその場で凝固する……。


きみは焦げたマントの上に横たわる。

きみの周りの暗い歳月が犬の骸骨となって

恐ろしい沈黙に向っていどみかかり、

時間はもう一度石の鳩に化して

じっと聞き耳を立てたが、

しかし、笑いは燃え尽き、大地の耳は聞こえなくなった。

最後の叫びを誰も聞かなかった、

世界全体がその最後の叫びとともに消えたというのに。


五本のレバノンスギのもと

ただ、この樹々のみを灯明として、

きみは焦げたマントの上に横たわる。

うつろな兜、塵にまみれた血、

腋から半ばもがれた腕、

そして眉間に、ああ、小さな悲しみの泉――、

間違いようのない死の指紋、

小さな赤黒い悲しみの泉、

この泉に記憶は凍る!


おお、見るな、見るな、生命が立ち去った孔を。

言うな、言うな、夢がどのように煙となって

立ち昇って消えたかを。

このようにだ、一瞬だ、このようにだ。

このように瞬間が瞬間を見捨て、

万能の太陽が世界全体を見捨てた。




太陽よ、太陽は万能ではなかったか?

鳥よ、鳥は絶えず動いてやまない喜びの瞬間ではなかったか?

かがやきよ、かがやきは雲の大胆ではなかったか?

庭よ、庭は花の泰楽堂ではなかったか?

暗い根よ、根は泰山木を吹くフルートではなかったか?


雨の中で一もとの樹がふるえる時、

魂の立ち去った身体を不幸の女神が黒ずませてゆく時、

狂った者がおのれを雪で縛る時、

ふたつの眼が涙の流れにゆだねられる時、

その時、鷲は若者のゆくえを尋ねる。

鷲の子は皆、若者がどこへ行ったかときづかう。

その時、母はわが子のゆくえを尋ねて溜息をつく。

母たちは皆、その子のゆくえをきづかう。

その時、友は尋ねる、わがはらからのゆくえを。

友は皆、いちばん若いはらからのゆくえをきづかう。

指が雪に触れれば指は雪の熱さにたじろぎ、

その手に触れれば手は凍りつき、

パンを噛めばパンは血を滴らし、

空の深みを見やれば空は鉛の死の色となる。

なぜだ、なぜ、なぜなぜなぜ、死は体温を与えず、なぜ、こんな聖餐でもないパンが血を流し

なぜ、こんな鉛の空があるのだ、いつも太陽が輝いていたところに?


……………



エリティスの『アルバニア戦線にたおれた一少尉のための悲歌』の翻訳には、私自身の戦争体験たとえば機銃掃射を受けた経験が役に立った。あの詩の前半には、私のもっともすばらしいと思う詩句があり、最初の一節は私がひそかに誇る部分である。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」1991年)

……拙い翻訳ながら、私の訳詩の中では最良のものかと、ひそかに思っている。翻訳をしながら、また読み返しながら、涙がこみあげてきたのは、他にも絶無ではないが、訳者を泣かせるパワーがいちばん大きかったのはこの詩である。(中井久夫『日時計の影』「あとがき」2008年)