アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩 オディッセアス・エリティス 中井久夫訳 |
一 太陽が初めて腰をおろしたところ、 時が処女の瞳のように開いたところ、 風がハタンキョウの花びらを雪と散らしたところ、 騎兵が草の葉を白く光らせて駆け抜けていったところ、 |
端正なスズカケの樹冠がしなうところ、 高く掲げた長旗がはためいて、水と地とに尾を揺らすところ、 砲身の重さに背が曲がるのではなく、空の重みに、世界の重みに背がしなうのである。 |
世界は光る、きらりと、 朝まだき露の滴が山裾の野に光るように。 |
今、影が伸びる、神のため息のように、長く、いっそう長く。 |
今、苦悶が総身に覆いかぶさり、 骨の浮いた手が、花を摘んでは握りつぶす、一本 また一本と。 水無瀬の河の涸れ谷に憂いのみ多くして、歌は死に、声は絶え、 居並ぶ岩の列は髪ひややかなる僧のごとく、声を殺して たたなわる原野を横ざまに切る。 |
身も心もこごえる冬。不運に不意を打たれる予感。 猪背〔ししせ〕の虚国〔むなくに〕の山並のたてがみ。 空の高みに禿鷹は舞う、高く高く、空の小さなパン屑を取り合って。 |
四 今、動かない髪の毛を風が静かになぶる。 忘却の枝を左の耳に刺して、 きみは焦げたマントの上に横たわる 鳥がいっせいに飛び立った後の庭のように、 暗闇の中で立ち往生した獣のように、 止まってしまった天使の時計のように。 睫毛があるかなきかのさようならをささやき、当惑がその場で凝固する……。 |
きみは焦げたマントの上に横たわる。 きみの周りの暗い歳月が犬の骸骨となって 恐ろしい沈黙に向っていどみかかり、 時間はもう一度石の鳩に化して じっと聞き耳を立てたが、 しかし、笑いは燃え尽き、大地の耳は聞こえなくなった。 最後の叫びを誰も聞かなかった、 世界全体がその最後の叫びとともに消えたというのに。 |
五本のレバノンスギのもと ただ、この樹々のみを灯明として、 きみは焦げたマントの上に横たわる。 うつろな兜、塵にまみれた血、 腋から半ばもがれた腕、 そして眉間に、ああ、小さな悲しみの泉――、 間違いようのない死の指紋、 小さな赤黒い悲しみの泉、 この泉に記憶は凍る! |
おお、見るな、見るな、生命が立ち去った孔を。 言うな、言うな、夢がどのように煙となって 立ち昇って消えたかを。 このようにだ、一瞬だ、このようにだ。 このように瞬間が瞬間を見捨て、 万能の太陽が世界全体を見捨てた。 |
五 太陽よ、太陽は万能ではなかったか? 鳥よ、鳥は絶えず動いてやまない喜びの瞬間ではなかったか? かがやきよ、かがやきは雲の大胆ではなかったか? 庭よ、庭は花の泰楽堂ではなかったか? 暗い根よ、根は泰山木を吹くフルートではなかったか? |
雨の中で一もとの樹がふるえる時、 魂の立ち去った身体を不幸の女神が黒ずませてゆく時、 狂った者がおのれを雪で縛る時、 ふたつの眼が涙の流れにゆだねられる時、 その時、鷲は若者のゆくえを尋ねる。 鷲の子は皆、若者がどこへ行ったかときづかう。 |
その時、母はわが子のゆくえを尋ねて溜息をつく。 母たちは皆、その子のゆくえをきづかう。 その時、友は尋ねる、わがはらからのゆくえを。 友は皆、いちばん若いはらからのゆくえをきづかう。 指が雪に触れれば指は雪の熱さにたじろぎ、 その手に触れれば手は凍りつき、 パンを噛めばパンは血を滴らし、 空の深みを見やれば空は鉛の死の色となる。 なぜだ、なぜ、なぜなぜなぜ、死は体温を与えず、なぜ、こんな聖餐でもないパンが血を流し なぜ、こんな鉛の空があるのだ、いつも太陽が輝いていたところに? |
……………
エリティスの『アルバニア戦線にたおれた一少尉のための悲歌』の翻訳には、私自身の戦争体験たとえば機銃掃射を受けた経験が役に立った。あの詩の前半には、私のもっともすばらしいと思う詩句があり、最初の一節は私がひそかに誇る部分である。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」1991年) |
……拙い翻訳ながら、私の訳詩の中では最良のものかと、ひそかに思っている。翻訳をしながら、また読み返しながら、涙がこみあげてきたのは、他にも絶無ではないが、訳者を泣かせるパワーがいちばん大きかったのはこの詩である。(中井久夫『日時計の影』「あとがき」2008年) |