何度も掲げているが、ラカンはセミネールⅩⅩⅢでフロイトのモノが現実界のトラウマと言ったわけでね。 |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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ここでは究極のモノはなんだろ、というエロを外して、純粋に論理的に示すよ。 |
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フロイトのモノの定義は、(自我あるいは心的装置に)同化不能の残滓[unassimilierbaren Reste]だ。 |
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同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895) |
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我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895) |
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この同化不能が現実界のトラウマであることをラカンは既にセミネールⅩⅠで定義している。 |
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現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964) |
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さらには、セミネールⅠの段階で、この同化不能が固着だとしている。 |
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固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1 07 Juillet 1954) |
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だからラカンの現実界が固着のトラウマであることは瞭然としてるんだよ。 もう少し言うなら、モノという同化不能の残滓[unassimilierbaren Reste]の別名は異者である。 |
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モノなる異者[Dingen Fremder](フロイト「フリース宛書簡」13. 2. 1896) |
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モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
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この異者が何よりもまずトラウマである。 |
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トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper]) のように作用する。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年) |
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で、この異者が固着という残滓であることは晩年のフロイトの記述に現れる。残滓とはエスに置き残されるという意味で、これが同化不能だ(自我に取り入れ不能と言ってもよい)。 |
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人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された 。die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年) |
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常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着という残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
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異者としての身体は原無意識としてエスに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要) |
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そしてこの固着の異者がエスの欲動蠢動(無意識のエスの反復強迫)。 |
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エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
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欲動蠢動は自動反復の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして固着の契機は無意識のエスの反復強迫である[Triebregung … vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –…Das fixierende Moment … ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要) |
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確認の意味で、現代ラカン派の注釈を二つ掲げておこう。 |
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フロイトの反復は、同化不能の現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011) |
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同化不能とは固着の別名である[« Inassimilable » , autre nom de la fixation](Martine Versel, DE LA FIXATION ET DE LA RÉPÉTITION EN PSYCHANALYSE, 22 Mai 2022 ) |
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…………… そもそもフロイトは1915年の段階で、欲動の対象は事実上、固着だと言っている。 |
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欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。 Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年) |
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だからどこをどうひねくりまわしてもフロイトラカンの核心は固着なんだよ。 |
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享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
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ラカンは享楽の対象をモノの名として示した[Cet objet de la jouissance …c'est ce que Lacan a désigné du nom de la Chose](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004) |
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欲動の対象=享楽の対象はモノなる異者という固着のトラウマである。これが真に明瞭化されるのにーー主流ラカン派(フロイト大義派)においてさえーーなんと100年かかったのだが。
原初の対象[l'objet primitif]、これが究極の欲動の対象[Objekt des Triebes]だよ。男も女も誘惑されつつも、逃げてるヤツが多いんだ、当然。死の不安のイマーゴなんだから。 例えばフェミニストたちの過剰なエディプス化(例えば頓珍漢でヒステリー的ジェンダー理論)は、ヴァギナ不安に由来することがおおいじゃないかね。
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