オハヨ、精神のビッコくん!
びっこの人が、我々をいらいらさせないのに、びっこの精神を持った人が、我々をいらいらさせるのは、どういうわけだろう。それは、びっこの人は、我々がまっすぐ歩いていることを認めるが、びっこの精神の持主は、びっこをひいているのは、我々の方だと言うからだ。そうでなければ、怒りではなく、憐れみを抱くだろう。 D'où vient qu'un boiteux ne nous irrite pas et un esprit boiteux nous irrite ? À cause qu'un boiteux reconnaît que nous allons droit et qu'un esprit boiteux dit que c'est nous qui boitons. Sans cela nous en aurions pitié, et non colère.(パスカル『パンセ』§80) |
最近いくらか修行を積んで、蚊居肢子は憐れみの人になりつつあるんだ、わかるかい? キミらはパッションがないという不幸を持ってるんだろうよ |
26歳のマルクスは既にこう書いている。 |
感性的であるということ、すなわち実在的であるということは、感覚の対象であること、感性的な対象であることであり、したがって自分の外部に感性的な諸対象をもつこと、自分の感性の諸対象をもつことである。感性的であるということは、受苦的であるということである[Sinnlich sein ist leidend sein.] Sinnlich sein, d.h. wirklich sein, ist Gegenstand des Sinns sein, sinnlicher Gegenstand sein, also sinnliche Gegenstände außer sich haben, Gegenstände seinen Sinnlichkeit haben. Sinnlich sein ist leidend sein. |
それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的[leidend]な存在であり、自分の苦悩[leiden]を感受する存在であるから、一つの情熱的存在[leidenschaftliches Wesen]である。情熱、パッション–受難[Die Leidenschaft, die Passion]は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である。 Der Mensch als ein gegenständliches sinnliches Wesen ist daher ein leidendes und, weil sein Leiden empfindendes Wesen, ein leidenschaftliches Wesen. Die Leidenschaft, die Passion ist die nach seinem Gegenstand energisch strebende Wesenskraft des Menschen. (マルクス「経済学哲学草稿」第三草稿 1844年) |