前回引用したフロイトの『症例シュレーバー』の固着点[Stelle der Fixierung]をめぐる文は、ラカンの現実界の享楽を掴むために決定的な文のひとつである。 まずジャック=アラン・ミレールの注釈を掲げよう。 |
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いわゆる享楽の残滓 [un reste de jouissance]がある。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だが基本的にそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって触発され、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。 C'est disons un reste de jouissance. Et Lacan ne dit qu'une seule fois mais au fond ça suffit, d'où il s'en inspire chez Freud quand il dit au fond que ce dont il fait ici une fonction, ce sont des points de fixation de la libido. 固着点はフロイトにとって、分離されて発達段階の弁証法に抵抗するものである[C'est-à-dire ce qui chez Freud précisément est isolé comme résistant à la dialectique du développement. ] 固着は、どの享楽の経済においても、象徴的止揚に抵抗し、ファルス化をもたらさないものである[La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante, ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.] (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III- 5/05/2004) |
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ここでミレールは、固着点は弁証法に抵抗するとか、象徴的止揚・ファルス化に抵抗するとか言っているが、要するに言語化されないということである。 |
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. ](ラカン, S18, 09 Juin 1971) |
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まずこの前提で、ラカンのセミネールⅩから、享楽の残滓(享楽という残滓)をめぐる文をいくつか列挙しよう。 |
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享楽は、残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
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残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu. Ce reste, …c'est le petit(a). ](Lacan, S10, 21 Novembre 1962) |
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対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
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フロイトの異者は、置き残し、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
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この5文にて、ラカンは「享楽=残滓=リビドーの固着点=異者(異者としての身体)」を示していることがわかる。 |
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残滓…現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
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ラカンの享楽とはリビドー固着に関わる異者身体なのである。 |
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フロイトにおいてリビドー固着あるいは残滓を示す最も明瞭な文は最晩年に現れる。 |
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常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着という残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
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異者としての身体は原無意識としてエスに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要) |
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残滓とはエスに置き残されるという意味であり、これが固着の異者身体である。異者としての身体はトラウマでありーー《トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体[Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt]》(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)ーー固着の異者とは固着のトラウマと言い換えてもよい。 |
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そして言語化されない固着とは、フロイト表現なら、自我の治外法権にあるエスの欲動蠢動としての異者身体である。 |
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エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
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ラカンは《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)と言ったが、この意味は、反復は固着の回帰、より厳密には固着点への回帰[Wiederkehr an die Stelle der Fixierung]なのである。 別の言い方をすれば、フロイトの「抑圧されたものの回帰」の原点にあるのは「原抑圧された欲動の回帰[Wiederkehr des primär verdrängten Triebe]」であり、これがラカンの「享楽の回帰」である。 ラカンの定義において現実界の享楽はトラウマである。
したがって「固着点への回帰=享楽の回帰」とは「トラウマの回帰」である。先に示したように異者としての身体=トラウマであり、享楽の回帰は「異者の回帰」とも言い換えうる。 この固着点への回帰としての反復(固着の反復)が、後期ラカンの現実界の症状「サントーム」の内実である[参照]。
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これらをおおよその形で把握するためには、一般にはジャック=アラン・ミレールの注釈よりもポール・バーハウの注釈の方がわかりやすい筈である。少なくとも私は、主にバーハウの注釈にて目醒めて、後にミレールで確認するという経緯を辿った(日本で流通しているブルース・フィンクでは何もわからない。ジジェクならさらにいっそう混乱するだけである、➡︎ジジェクなる「パンドラの箱」)。もっとも厳密な把握には、ラカンのセミネールを引き継ぎ、30年間セミネールをやってラカン語彙をひとつひとつ紐解いて結論に達したミレール注釈が不可欠ではある。 以下、固着・現実界・異者についてのバーハウの核心的二文を掲げておく。 |
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。 The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
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原初の現実界の出発点は「異者としての身体[Fremdkörper]」として居残って効果をもったままである。この事実は、身体的な何ものかがどの症状の核にも現前しているということである。より一般的なフロイト理論用語では、いわゆる欲動の根[Triebwurzel]あるいは固着点[Stelle der Fixierung]である。ラカンに従って、われわれはこの固着点のポジションに対象aを置くことができる。 the original real starting point remains effective as a “foreign body.”… the fact that something of the body is present in the kernel of every symptom. In the more general terms of his theory, this is the so-called “root” of the drive or the point of fixation . Following Lacan, we can place the object (a) in this position. (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004) |