前回の記事を記したところで、中井久夫の名エッセイ「いじめの政治学」をなぜか思い起こしたので、ここに引用する。
いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。〔・・・〕いじめはなぜわかりにくいか。それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである。 私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。〔・・・〕これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。 |
【孤立化】 まず孤立化である。 孤立していない人間は、時たまいじめに会うかもしれないが、持続的にいじめの標的にはならない。また、立ち直る機会がある。立ち直る機会を与えず、持続的にいくらでもいじめの対象にするためには、孤立させる必要があり、いじめの主眼は最初「孤立化作戦」に置かれる。その作戦の一つは、標的化である。誰かがマークされたということを周知させる。そうするとそうでない者はほっとする。そうして標的から距離を置く、それでも距離を置かない者には、それが損であり、まかり間違うと身の破滅だよということをちらつかせる。 ついで、いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦が始まる。些細な身体的特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動は一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。〔・・・〕 |
【無力化】 孤立化の過程においては、相手はまだ精神的には屈伏していない。ひそかに反撃の機会をを狙っているかもしれない。加害者はまだ枕を高くしておれない。 次加害者が行なうことは無力化することである。 孤立化作戦はすでに無力化を含んでいる。〔・・・〕しかし、「無力化作戦」はそれだけでは終わらない。この作戦は、要するに、被害者に「反撃は一切無効である」ことを教え、被害者を観念させることにある。そのためには、反撃には必ず懲罰的な過剰暴力を以て罰せられること、その際に誰も味方にならないことを繰り返し味わわせること必要がある。反抗の微かな徴候も過大な懲罰の対象となる。さらには、「反抗を内心思ったであろう、そのはずだ」と言いがかりをつけて懲罰することも有効である。これは被害者に、加害者よりも自分の振る舞いの方に、さらにはおのれの内心の動きへと眼を向けるようにさせる効果もある。〔・・・〕 |
ここで暴力をしっかり振るっておけば、あとは暴力を振るうぞというおどしだけで十分である。暴力それ自身は、振るいたい時にいつでも振るえるとなれば、それほど頻繁に振るうものではない。暴力を以て辛うじて維持されている権力というものは危うい権力であり、権力欲の観点からみて、決して快い権力ではない、進んで、自発的に隷従されることが理想である。 |
【透明化】 さて、この辺りから、いじめは次第に「透明化」して周囲の眼に見えなくなってゆく。 一部は、傍観者の共謀によるものである。古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意selective inattention」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。〔・・・〕 |
しかし、第三者に見えないのは、第三者が「見ない」だけではない。実際、この時期に行われる「透明化作戦」によってざっと見たぐらいでは見えなくなっているのである。 この段階になると、被害者は孤立無援であり、反撃あるいは脱出のために無力である自分がほとほと嫌になっている。被害者は、次第に自分の誇りを自分で掘り崩してゆく。〔・・・〕 空間的にも、加害者のいない空間が逆説的にも現実感のない空間のようになる。いや、たとえ家族が海外旅行に連れだしても、加害者は"その場にいる"。 空間は加害者の臨在感に満ちている。いつも加害者の眼を逃れられず、加害者の眼は次第に遍在するようになる。 独裁国の人民が独裁者の眼をいたるところに、そしていつも、感じるのと同じ心理的メカニズムである。(中井久夫「いじめの政治学」1997年『アリアドネからの系』所収) |
「孤立化」が失敗しちゃったんだよな、米主導のNATO は。ロシア孤立化の失敗にもかかわらず、無理矢理「無力化」に進んだんだよ。もともと「透明化」狙いだったんだろうがね、日本みたいな完全な透明化狙いさ。
でも日本も頑張ったんだ、ロシアが下位にいると錯覚して差別制裁してさ。
権力欲〔・・・〕その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる、このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。〔・・・〕 |
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。〔・・・〕個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」1997年『アリアドネからの系』所収) |
徹底的に透明化差別された米ポチ国家の宿命だね、米ポチ国際政治学者のたぐいももちろん同様。
以上、シツレイしました。蚊居肢子にはイジメ?の悪い癖があるのです。
私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』) |
|
なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは〔・・・〕、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。 |
そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。Aussi le charme apparent, copiable, des êtres m'échappait parce que je n'avais plus la faculté de m'arrêter à lui, comme le chirurgien qui, sous le poli d'un ventre de femme, verrait le mal interne qui le ronge. (プルースト「見出されたとき」) |