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2022年9月11日日曜日

絶対音感と自閉症

 

前回、享楽は自閉症的享楽[jouissance autiste]であることを示した。

そして享楽はトラウマ的身体の出来事であり、固着であることもこのところの三連投のなかで示した。


いくらか復習しよう。

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…)  on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


この自閉症的享楽にかかわる「身体の出来事=トラウマ的固着」は幼児期に起こる。

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance]. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


そしてこの固着の反復がラカンの現実界の症状サントームである。


サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉的享楽に帰着する。

[Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste」 (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)

サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)



ところでサントームとしての固着の反復は「S2なきS1」を通した自己身体の反復である。

ラカンがサントームと呼んだものは、依存の水準にある。この反復的享楽は、一者のシニフィアン ・S1とのみ関係がある。

ce que Lacan appelle le sinthome est au niveau de l'addiction -, cette jouissance répétitive n'a de rapport qu'avec le signifiant Un, avec le S1. 


その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自己享楽に他ならない。

Ça veut dire qu'elle n'a pas de rapport avec le S2, qui représente le savoir. Cette jouissance répétitive est hors-savoir, elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2. Et ce qui fait fonction de S2 en la matière, ce qui fait fonction d'Autre de ce S1, c'est le corps lui-même. 

(J.-A. Miller, L'Être et l'Un, 23/03/2011)


この知を代表象するS2とは関係がない《S2なきS1(S1 sans S2)》、これが固着の意味である。

S2に付着していないS1(S2なきS1[S1 sans S2])… これが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – le Un détaché du deux, non pas le S1 attaché au S2…précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)





この固着という《S2なきS1(S1 sans S2)》を理解するためには、中井久夫が挙げている絶対音感の事例がとてもわかりやすい。


私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性 coenaesthesiaと原始感覚性 protopathyとを挙げた。


もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。〔・・・〕


私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。〔・・・〕


私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。


絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。


私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。


ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである〔・・・〕


音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。


視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」2012年『徴候・記憶・外傷』所収)


人は通常、「S1-S2」というシニフィアンの結びつきの下で生活している。これが文脈依存性である。他方自閉症とは何よりもまず「S2なきS1」という非文脈性の支配の下にあるということができる。もちろんーーたんなるシロウトの身としてーー、これがすべてに当てはまるというつもりは毛頭ない。いま私がこの絶対音感の事例を挙げたのは、当面、固着という「S2なきS1」の内実を示すためである。そして、《成人型文法性成立以前の「先史時代」に属する》幼児型記憶自体が自閉症的享楽に大いにかかわるだろうことを示すためである。


(中井久夫はエイデティカー気味ではなかろうか、そう思われる記述がいくつもあるが、それはここでの話題ではないので触れないでおく。)


なお、主体の故郷にある自閉症ーー《自閉症は主体の故郷の地位にある[l'autisme était le statut natif du sujet]》(J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)ーーこの故郷にある自閉症的シニフィアン「S2なきS1」を「S1-S2」に変換することが成人文法的言語化(文脈化)だとしてよいだろう。


言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)



ラカンは自閉症的シニフィアンをララングと呼んだ。これは事実上、母の言葉であり、中井久夫も繰り返し触れている[参照]。セミネールⅤのラカンが《母なるシニフィアン》le signifiant maternelとしたものが、このララングにほぼ相当する。


《最終的に、精神分析は主体のララングを基盤にしている[Enfin, une psychanalyse repose sur lalangue du sujet]》(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 」2010年)ーーつまり固着という自閉症的シニフィアンを探ることを基盤としている。《分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)