日本人であるせいで、私は、 日本列島の曖昧模糊とした「共感の共同体」文化に染まり、折あるごとに「 空気」を読みながら行動するようになりました。日本人の故に私はまた、固く結束したムラ社会の気風に溺れて蛸壺に嵌り、意見の異なる少数派に対して「村八分」で対応する習性を持つようになりました。さらにまた、多数派の日本人故に、知力を行使する際に著しい制約の憂き目に遭い、数多の偏見にまみれ、在日東アジア人らに対する排斥運動に「選択的非注意」を払ってきたのです。 |
ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。Weil ich Jude war, fand ich mich frei von vielen Vorurteilen, die andere im Gebrauch ihres Intellekts beschränkten, als Jude war ich dafür vorbereitet, in die Opposition zu gehen und auf das Einvernehmen mit der »kompakten Majorität« zu verzichten.(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶(Ansprache an die Mitglieder des Vereins B'nai B'rith)』1926年) |
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十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしてこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな![Jud, herunter vom Trottoir!] 』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」 |
これはどうも少年の手をひいて歩いてゆくこの頑丈な父親にふさわしくなかった。私はこの不満な一状況に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカスが少年ハンニバルをして、家の中の祭壇の前でローマ人への復讐を誓わせた一場、私の気持にぴったりする一情景を対置せしめた。爾来ハンニバルは私の幻想の中に不動の位置を占めてきたのである。(フロイト『夢解釈』第5章、1900年) |
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これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ「別れのワルツ」) |
過去の虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010) |
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『人間モーゼと一神教』におけるフロイトは、すべての宗教を集団神経症とみるだけでなく、さらに、そのようにみる彼自身の、あるいは精神分析の立場そのものがどこからきたかを問うている。いいかえれば、「ユダヤ的であること」がどこからきたかを問うている。フロイトの考えでは、いうまでもなく、それは偶像崇拝を禁止した人間モーゼからきたのだ。〔・・・〕 フロイトはいう。《ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです》(「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)。 |
この「ユダヤ人」は、フロイトにとって、ユダヤ教やユダヤ人の共同体を意味していない。それは、いかなる共同体の偏見(偶像)をも拒否し、したがってそこから排斥されざるをえない在り方のことである。つまり、「ユダヤ的であること」は、いかなる共同体にも帰属せずその「間」に立つことである。むろん、それを「ユダヤ的」という固有名詞で呼ばねばならないわけではない。しかし、そのような在り方が、たとえばモーゼの「偶像崇拝の禁止」において典型的に開示されたことは疑いがない。なぜなら、それはいかなる共同体の神々に即くことをも禁じているからである。フロイトが固執するモーゼは、そのようなモーゼであって、ユダヤ人に儀礼や戒律を与えたモーゼではない。あるいは、外国人(他者)としてのモーゼであって、「民族の英雄」としてのモーゼではない。フロイトはユダヤ民族のアイデンティティ(選民としての)を否定するが、ただ「ユダヤ的であること」のアイデンティティは確保しようとするのである。 |
しかし、フロイトがモーゼに異様にこだわったのは、「精神分析」そのものがそのような在り方であり運動だったからである。事実フロイトは、精神分析をたんに治療法としてではなく世界的な思想運動とみなしている。ある意味で、彼はモーゼのように運動を創始しモーゼのようにふるまったのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』「ユダヤ的なもの」1989年) |
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「共感の共同体」日本の信者たちは、「ユダヤ人」が存在しなければそれを発明します。この2022年3月以降の「ユダヤ人」はご存じの通り、ロシア人です。 |
もしユダヤ人が存在しないとすれば、反ユダヤ主義者はユダヤ人を発明するだろう[si le Juif n'existait pas, l'antisémite l'inventerait.](サルトル『ユダヤ人問題についての考察』1946年) |
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信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。 もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で不寛容 [Grausamkeit und Intoleranz ]になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年) |
私は日本人である故に、日本の風景に教育され、見ずにおくことの技術の体系を自ずと身につけて、在日いじめやロシアいじめがおこなわれても、選択的非注意の慰安に耽ることを覚えたのです。 |
風景は教育する。風景は、教育装置として機能することではじめて風景となる。〔・・・〕 存在が風景を読むのではない。風景が存在を読みとってゆくのである。風景が教育するとは、この風景による解読の運動に存在が徐々に馴れ親しんでゆく過程を意味している。みずから「記号」として交換され、分配され、しかるべき物語の説話論的要素たることをうけいれながら、そこにいかなる痛みも怖れの感情をもいだかずにいられるまで、風景に犯されることを教育と呼ぶのである。だから風景に驚嘆し、退屈しもする感性は、装置としての風景が休みなく語り続ける美しさの物語に、しかるべく組みこまれてゆくまでのことだ。(蓮實重彦「風景を超えて」『表層批評宣言』所収、1979年) |
見ることの技術の体系化は、しかし、それ自体として完成されるものではない。とりあえずそれが可能なのは、病気が正常と、狂気が理性と、言葉が物とすでに分離しているという歴史的な前提があるからにすぎない。技術体系にその機能を許しているのは、あくまでこの分割である。技術の歴史は、この分割をもその文脈にとりこみえたとき、はじめてその歴史性を開示することになるだろう。また、『狂気の歴史』や『臨床医学の誕生』、そして『言葉と物』が歴史的な書物になっているのもその限りにおいてである。 この三冊の歴史的な書物で問われているのは、まぎれもなく見ることの技術体系である。だが、視線が技術の問題であるとしても、その技術が何を見るのかのそれではなく、何も見ずにおくための技術であったという点は改めて強調しておく必要があるだろう。それは、不可視のまわりに配置された視線の体系なのだ。事実、技術に翻訳されえないが故に病気は病気なのだし、狂気は狂気なのだし、言葉は言葉なのだ。『臨床医学の誕生』で強調されていたのが、医師がいかに病気を見ていなかったかという点にあったことを思い起こすまでもなく、見ることは見ずにおくことの技術の体系として、ながらく人間的な思考を支えていたのだ。(蓮實重彦「視線のテクノロジー フーコーの「矛盾」」初出1984年『表象の奈落』所収) |
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古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1997年『アリアドネからの糸』所収) |
日本人である故に精神分析やらフーコーやらの現代思想を読んでも何の役に立ちません。すぐに焚書処分にすることをお勧めします。