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2022年10月20日木曜日

サイレンが遠く聞こえる

 

私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』1971年)


沈黙のもつ恐怖についてはいまさら想うまでもない。死の暗黒世界をとり囲む沈黙。時に広大な宇宙の沈黙が突然おおいかぶさるようにしてわれわれを掴えることがある。生まれでることの激しい沈黙、土に還るときの静かな沈黙。芸術は沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか。詩も音楽も沈黙に抗して発音するときに生れた。〔・・・〕


ルネッサンスによって人間くさい芸術が確立し、分化の歴史をたどると、近代の痩せた知性主義が芸術の本質を危うくした。いまでは、多くの芸術がその方式のなかであまりにも自己完結的なものになってしまっている。饒舌と観念過剰は芸術をけっして豊かなものにはしない。

沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外の何でもない。沈黙の坑道から己をつかみ出すことだけが<歌>と呼べよう。あるいはそれだけが<事実>のはずだ。〔・・・〕芸術家は沈黙のなかで、事実だけを把りだして歌い描く。そしてその時それがすべての物の前に在ることに気づく。


これが芸術の愛であり、<世界>とよべるものなのだろう。いま、多くの芸術家が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)


私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)


たしかに美しすぎるからな、武満徹のことばは。ひねくれ者根性から、「祈り、女性器と測りあえるほどに」とか言ってみたくなるよ


武満自身がことばのひとだった。スケッチブックにさまざまなことばを集めながら作品の構想を得ただけでなく、自分の音楽についてもたくさんのことばを残したために、武満を論じた他人の文章のほとんどは、それらのことばを論じているか、 それらを通してかれの音楽を聴いたつもりになっている。


かれが自分の体験について語ったことばも、たいへん魅力的だが、真実であるにはあまりにうつくしい。かれが自分と自分の作品のまわりに織り上げた伝説にとらわれずに、このひとを語るためのことばは、まだ存在しない。もし、かれの音楽がこれからも忘れられずにいれば、ことばに覆われているかれの生と音楽を解き放つ考証も、いつかは可能になるだろうか。


ーー武満徹の「うた」 高橋悠治



高橋悠治も、上でいっているのとは違う意味で、ことばのひとなんだ、私にとっては。




母  高橋悠治



サイレンが遠く聞こえる

懐中電灯の青い光 にぎりしめ充電する微かな音 

暗い家

ねむい子どもを歩かせ 赤ん坊を背負って急ぐ

川向うの洞窟へ

いつももんぺ 髪は手ぬぐいで包む

鎌倉は田舎町で たんぽぽやえんどう豆を食べる

           ピアノは蓋が閉まっていた

おとなたちはいつも近所で過ごす


暑い庭にひしめき座る

家から庭に向けたラジオ

雑音にまぎれた声

その三日後

山の向こうで高射砲が一発 庭に

赤茶けた鉄の塊が落ちてきた


戦争が終わり 音楽がはじまった

 子どもたちがピアノを習いにくる

夜 母は自分の練習をする 

バッハ=ブゾーニのシャコンヌ

 フランクの前奏曲・コラール・フーガ

  ショパンの幻想曲や 子守唄

近所にいたヴァイオリニストと クロイツェル・ソナタ


 ズボンはもうはかない

短めの上着と細めのスカート

フリルカラー・シフォンブラウス

レッスンの合間に 古い料理カードの絵を見て

おなじ皿がひと月続く

ミシンを踏んで縫った 不格好な子どもズボン


ひさしぶりのコンサートで伴奏をして

批評を読み だまって雑誌を閉じた

それからは

生徒に弾かせる曲を 自分でも練習していた


昔のことは言わなかった

聞いておきたかったことも 

 もう忘れたよ としか言わなかった


    *


坂の上の家から

毎日町に出る

足は強かった


九十歳をこえると

ピアノの音は聞こえても

人の声は聞こえにくい

ひとりで昔の写真を見る

姿勢が左に傾いている

 しずかだね

 世の中にだれもいないみたい


ピアノはもう弾かない

からだが重く

支えても足がうごかない

 あぶない あぶない

夜はすぐ目覚め

明かりを点ける

 闇が離れていくように


音楽は もういらない

家を離れて 病院の四人部屋

 出てきたな

 びっくりした

 見舞いに来たの


 いっしょにあそんで たのしかったね

 もっとあそびたいけど

 いまは つらいことばかり


日が暮れてゆく

血圧、脈、呼吸の波がゆれている

呼吸が波立ち 乱れ

他の波に波紋が伝わる

波頭が折り重なり 狭まり尖って

 せわしく喘ぎ

          たちまち砕け散る


*母・髙橋英子(1914.1.31 2013.5.21)   





グールドは演奏家、作曲家、聴衆が分れていない黄金時代を夢みた。

グレゴリア聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール『グールド 孤独のアリア』)


音楽が祈りというのは確かだろうよ、神の声が歌うんだ、武満徹だけじゃなく、高橋悠治にとっても。あるいはまともな音楽家すべてにとって。


問いは神とは何か、ということだ。


エドゥアルト・マイヤー(1906)は、神の原初の性格像を再構築した。神は不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回ると[Meyer das ursprüngliche Charakterbild des Gottes rekonstruieren: Er ist ein unheimlicher, blutgieriger Dämon, der bei Nacht umgeht und das Tageslicht scheut.](フロイト『モーセと一神教』2.4、1939年)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


不気味なものは人間の実存[Dasein]であり、それは意味もたず沈黙している[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)


ーー《死の欲動は本源的に沈黙しているという印象は避けがたい[müssen wir den Eindruck gewinnen, daß die Todestriebe im wesentlichen stumm sind ]》(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)


死とは、私たちに背を向けた生の相であり、私たちが決して見ることのない生の相です。すなわち私たちの実存[Daseins]の偉大なる気づきを可能な限り獲得するよう努めなければなりません。Der Tod ist die uns abgekehrte, von uns unbeschienene Seite des Lebens: wir müssen versuchen, das größeste Bewußtsein unseres Daseins zu leisten (リルケ書簡 Rainer Maria Rilke, Brief an Witold von Hulewicz vom 13. November 1925ーー「ドゥイノの悲歌」について)



な、やっぱり、「祈り、女性器と測りあえるほどに」となるだろ?



昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた(あるいはおそらくそう感じていた)。子どもは小さな死を、おとなは大きな死を自らのなかにひめていた。女は死を胎内に、男は胸内にもっていた。誰もが死を宿していた。それが彼らに特有の尊厳と静謐な品位を与えた。

Früher wußte man (oder vielleicht man ahnte es), daß man den Tod in sich hatte wie die Frucht den Kern. Die Kinder hatten einen kleinen in sich und die Erwachsenen einen großen. Die Frauen hatten ihn im Schooß und die Männer in der Brust. Den hatte man, und das gab einem eine eigentümliche Würde und einen stillen Stolz.(リルケ『マルテの手記』1910年)



武満のいう《土に還るときの静かな沈黙》の別名は、母なる大地、沈黙の死の女神だろうよ。


ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 [Vderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう[Oder die drei Formen, zu denen sich ihm das Bild der Mutter im Lauf des Lebens wandelt: ]


すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。


そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)



この沈黙の死の女神に対するギリギリのところでの防衛が、究極の祈りだ。死のにおいのしない美には、尊厳も静謐な品位もないさ。