この二人の「私の好きなもの」はとってもいいよ。むかし何度か引用したんだけど、あらためて掲げておくよ。
ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉1968年) |
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《私の好きなもの》、サラダ、シナモン、チーズ、ピーマン、アーモンドのパイ、刈った干草の匂い(どこかの鼻〔調香師〕がそんな香水をつくってくれるといいのだが)、ばらの花、しゃくやくの花、ラヴェンダー、シャンパン、政治的には軽い立場、グレン・グールド、よく冷えたビール、 平らな枕、焼いたパン、ハヴァナの葉巻、ヘンデル、ゆっくりした散歩、梨、白桃、チェリー、絵具、腕時計、万年筆、ペン、アントルメ、精製していない塩、リアリズムの小説、ピアノ、カフェ、ボロック、トゥオンブリー、ロマン派の音楽いっさい、サルトル、ブレヒト、ヴェルヌ、フーリエ、エイゼンシュテイン、汽車、メドックのワイン、ブーズィー、小づかいを持っていること、『ブヴァールとペキュシェ』、サンダルばきで南西部地方の裏通りを晩に歩くこと、L博士の家から見えるアドゥール河の湾曲部、マルクス・ブラザーズ、サラマンカから朝の七時に出発するときにたべたセルラーノ[スペイン風のハム]など。 |
《私の好きでないもの》、白いルルー犬、パンタロンをはいた女、ゼラニウム、いちご、クラヴサン、ミロ、トートロジー、アニメーション映画、アルトゥール・ルービンシュタイン、ヴィラ、午後、サティ、バルトーク、ヴィヴァルディ、電話をかけること、児童合唱団、ショパンの協奏曲、ブルゴーニュの集団舞踏、ルネッサンス期のダンス、オルガン、M-A・シャルパンティエ、そのトランペットとティンパニー、政治的=性的なものごと、喧嘩の場面、率先すること、 忠実さ、自発性、知らない人々と一緒の夜のつき合い、など。 |
《私の好きなもの、好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことが言おうとしているのはこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない [mon corps n'est pas le même que le vôtre]》。というわけで、好き嫌いを集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象 である。ここに、身体による威嚇[l'intimidation du corps ]が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。 (一匹の蝿が私に腹を立てさせる、 私はそれを殺す。人は、腹を立てさせる相手を殺す。もし私がその蝿を殺さなかったとしたら、それは《ひとえに自由主義のため》であっただろう。私は、殺人者にならずにすますために、自由主義者である。) |
(『彼自身によるロラン・バルト』1975年) |
重要なのは、こういったのを読んでもマネしないことだな
個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」1988年) |
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