以前に何度か引用した文だが、ドゥルーズ&ガタリは次のように書いている。音楽の起源はこういうところにあるんじゃないかね。
暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。 |
Un enfant dans le noir, saisi par la peur, se rassure en chantonnant. Il marche, s'arrête au gré de sa chanson. Perdu, il s'abrite comme il peut, ou s'oriente tant bien que mal avec sa petite chanson. Celle-ci est comme l'esquisse d'un centre stable et calme, stabilisant et calmant, au sein du chaos. |
子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。 |
Il se peut que l'enfant saute en même temps qu'il chante, il accélère ou ralentit son allure ; mais c'est déjà la chanson qui est elle-même un saut : elle saute du chaos à un début d'ordre dans le chaos, elle risque aussi de se disloquer à chaque instant. Il y a toujours une sonorité dans le fil d'Ariane. Ou bien le chant d'Orphée. |
(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』1980年) |
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リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる:時に、時に、時に。La ritournelle a les trois aspects, elle les rend simultanés, ou les mélange : tantôt, tantôt, tantôt. |
時に、カオスが巨大なブラックホール となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。Tantôt, le chaos est un immense trou noir, et l'on s'efforce d'y fixer un point fragile comme centre. 時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観」を作り上げる(形態ではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。Tantôt l'on organise autour du point une « allure » (plutôt qu'une forme) calme et stable : le trou noir est devenu un chez-soi. 時に、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。 Tantôt on greffe une échappée sur cette allure, hors du trou noir. (ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「De la ritournelle」1980年) |
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ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。 Rappelons-nous l'idée de Nietzsche : l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle, mais qui capture les forces muettes et impensables du Cosmos. (ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980) |
最後の文でドゥルーズ&ガタリは、小さなリフレイン、リトルネロ、つまり反復を永遠回帰として扱っているが、これはフロイトも同様。
上の3項は等価であり、その効果として下の4項が起こるが、この4つもフロイトは事実上等置している[参照]。
つまりフロイトにとって永遠回帰はレミニサンスであると同時に死の欲動だが、これ自体、ドゥルーズは『差異と反復』で事実上そう扱っている。
エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。プルーストの定式、《純粋状態にあるわずかな時間 》が示しているのは、まず純粋過去 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能の形式である。 Erôs est constitué par la résonance, mais se dépasse vers l'instinct de mort, constitué par l'ampli- tude d'un mouvement forcé (c'est l'instinct de mort qui trouvera son issue glorieuse dans l'oeuvre d'art, par-delà les expériences érotiques de la mémoire involontaire). La formule proustienne, « un peu de temps à l'état pur », désigne d'abord le passé pur, l'être en soi du passé, c'est-à-dire la synthèse érotique du temps, mais désigne plus profondément la forme pure et vide du temps, la synthèse ultime, celle de l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le temps. (ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年) |
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上にあるように、無意志的記憶(レミニサンス)=永遠回帰=死の本能である。
ところでラカンにとってリトルネロの原点にあるのはララングである。
リトルネロとしてのララング [lalangue comme ritournelle ](Lacan、S21,08 Janvier 1974) |
ララングとは事実上、母の言葉、あるいは幼児の喃語であり、《母なるララングのトラウマ的効果[L'effet traumatique de lalangue maternelle]》(Martine Menès, Ce qui nous affecte, 15 octobre 2011) をもつ[参照]。トラウマの効果とは何よりもまず反復、つまりリトルネロである。 フロイトラカンにおけるトラウマとは「身体の出来事」あるいは「固着」であり、これが享楽の定義である。 |
トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕 この作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ] この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
上の文でフロイトはトラウマへの固着と反復強迫としているが、先の簡易図で示したように反復強迫=死の欲動=永遠回帰=レミニサンスであり、これがラカンの享楽である。 |
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021) |
反復はこの享楽としての身体の出来事の回帰である。 |
反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance].(Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
そしてこの回帰は意味を超えた沈黙した享楽の反復であり、死の欲動である[参照]。 |
享楽の反復は意味を超えている。ラカンは、最初に女性のセクシャリティにおいて見出したこの沈黙した享楽の事例を一般化した。基本的には、ラカンは引き続いて、男性においてもこの沈黙した享楽を拡張した。つまり、これを通して、意味に対して不可解な享楽の根源的位置を授けたのである。 Cette répétition de jouissance se fait hors-sens,… C'est aussi par là que Lacan a pu généraliser l'instance de cette jouissance muette qu'il découvrait dans la sexualité féminine. Au fond, il l'a étendue dans un second temps au mâle aussi, pour dire que c'est elle qui donne le statut fondamental de la jouissance comme opaque au sens. (J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un, 23/03/2011) |
死の欲動は本源的に沈黙しているという印象は避けがたい[müssen wir den Eindruck gewinnen, daß die Todestriebe im wesentlichen stumm sind ](フロイト『自我とエス』第4章、1923年) |
ここで、私の脳髄においては、武満の次の文に繋がっている。 |
沈黙のもつ恐怖についてはいまさら想うまでもない。死の暗黒世界をとり囲む沈黙。時に広大な宇宙の沈黙が突然おおいかぶさるようにしてわれわれを掴えることがある。生まれでることの激しい沈黙、土に還るときの静かな沈黙。芸術は沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか。詩も音楽も沈黙に抗して発音するときに生れた。〔・・・〕 ルネッサンスによって人間くさい芸術が確立し、分化の歴史をたどると、近代の痩せた知性主義が芸術の本質を危うくした。いまでは、多くの芸術がその方式のなかであまりにも自己完結的なものになってしまっている。饒舌と観念過剰は芸術をけっして豊かなものにはしない。 沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外の何でもない。沈黙の坑道から己をつかみ出すことだけが<歌>と呼べよう。あるいはそれだけが<事実>のはずだ。〔・・・〕芸術家は沈黙のなかで、事実だけを把りだして歌い描く。そしてその時それがすべての物の前に在ることに気づく。 これが芸術の愛であり、<世界>とよべるものなのだろう。いま、多くの芸術家が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』) |
ドゥルーズ&ガタリのリトルネロ概念は先にあるように三つの相が示されているが、第一の《時に、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする》の「もろい一点」が固着点に相当する。そして冒頭の文にあるようにこのもろい一点は、《いつ分解してしまうかもしれぬという危険もある》、つまりブラックホールに呑み込まれてしまう危険もある。これを私は、武満の《沈黙のもつ恐怖》に結びつける。場合によっては《土に還るときの静かな沈黙》に。さらにはフロイトの沈黙の死の女神に。
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 [Vẻderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう[Oder die drei Formen, zu denen sich ihm das Bild der Mutter im Lauf des Lebens wandelt: ] すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。 そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年) |
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もちろんこの結びつけは、繰り返せば、個人的脳髄内の憶測である。
なおレオナルドはこう記していることを付け加えておこう。 |
我々の原カオスへのリトルネロ ritornare nel primo chaosへの希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬[desidera la sua disfazione]をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。 la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』) |
自己破壊、すなわち死の欲動である。 |
我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
ニーチェにもこの自己破壊という表現がある、ーー《より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts]》(ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887)