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2022年10月22日土曜日

なあ、おい、そこのきみら!

8カ月たってもいまだムッツリスケベきめこんでいる日本の精神分析家って何やってるんだろ? なあ、おい、そこのきみら!


人類がまだ埋葬していないものの代表は戦争である。その亡霊は白昼横行しているように見える。    


精神医学と犯罪学は個々の戦争犯罪人だけでなく戦争と戦争犯罪をも研究の対象にするべきであるとエランベルジェ先生は書き残された。人類はなぜ戦争するのか、なぜ平和は永続しないのか。個人はどうして戦争に賛成し参加してしまうのか。残酷な戦闘行為を遂行できるの か。どうして戦争反対は難しく、毎度敗北感を以て終わることが多いのか。〔・・・〕


戦争の準備に導く言葉は単純明快であり、簡単な論理構築で済む。人間の奥深いところ、いや人間以前の生命感覚にさえ訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。これらは多くの者がふだん持ちたくて持てないものである。戦争に反対してこの高揚を損なう者への怒りが生まれ、被害感さえ生じる。仮想された敵に「あなどられている」「なめられている」「相手は増長しっ放しである」の合唱が起こり、反対者は臆病者、卑怯者呼ばわりされる。戦争に反対する者の動機が疑われ、疑われるだけならまだしも、何かの陰謀、他国の廻し者ではないかとの疑惑が人心に訴える力を持つようになる。


さらに、「平和」さえ戦争準備に導く言論に取り込まれる。すなわち第一次大戦のスローガ ンは「戦争をなくするための戦争」であり、日中戦争では「東洋永遠の平和」であった。戦争の否定面は「選択的非注意」の対象となる。「見れども見えず」となるのである。(中井久夫「戦争と平和についての観察」 2005年)




もともと分かってたけどさ、きみらはそういうやつらだってのは。


学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の偉大な問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)



もうやめといたらどうだい、フロイトとかラカンとかのおバカな注釈書だすのは? ついでに過去のものも焚書処分にしろよ。これはもちろん精神分析に限らない。現代思想なんてぜんぶ寝言だよ。哲学書も批評書もぜんぶそうしろよ。極論を言わせてもらえば、ニーチェだけを舐めるように読め、ほかはまったくいらない。これは小林秀雄が「トルストイだけを読み給え」と言ったのと同じ含意がある。現在、ほとんど誰もトルストイを、ニーチェを読んでいないのである。




最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeit]である。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つである[Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit].〔・・・〕


「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい![Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年)




戦争は不可欠[Der Krieg unentbehrlich]


人類が戦争することを忘れてしまった時に、人類からなお多くのことを(あるいは、その時はじめて多くのことを)期待するなどということは、むなしい夢想であり、おめでたい話だ[eitel Schwärmerei und Schönseelentum]。あの野営をするときの荒々しいエネルギー、あの深い非個人的な憎悪、良心の苛責をともなわないあの殺人の冷血[jene Mörder-Kaltblütigkeit mit gutem Gewissen]、敵を絶滅しようというあの共通な組織的熱情、大きな損失や自分ならびに親しい人々の生死などを問題にしないあの誇らかな無関心、あの重苦しい地震のような魂の震憾などを、すべての大きな戦争があたえるほど強く確実に、だらけた民族にあたえられそうな方法は、さしあたり、ほかには見つからない。


もちろん、ここで氾濫する河川は、石やあらゆる種類の汚物を押し流して、微妙な文化の沃野を荒すけれど、後日、事情が好転すれば、この河川の力によって、精神の仕事場の歯車が新しい力でまわされることになる。文化は激情や悪徳や悪事をどうしても欠くことはできないのだ[Die Kultur kann die Leidenschaften, Laster und Bosheiten durchaus nicht entbehren]。


帝政時代のローマ人がいくらか戦争に倦いてきたとき、彼らは、狩猟や剣士の試合やキリスト教徒の迫害によって、新しい力を獲得しようとこころみたものだった。大体においてやはり戦争を放棄したように見える現在のイギリス人は、あの消滅してゆく活力をあらたにつくり出すために、別の手段を取っている。 あの危険な探険旅行とか遠洋航海とか登山とかは、科学上の目的からくわだてられるものと言われているが、その実、あらゆる種類の冒険や危険から、余分の力を持って帰ろうというのだ。

人間はまだまだ戦争の代用物[Surrogate des Krieges]をいろいろ考え出すことだろうが、現今のヨーロッパ人のように高度の文化を持った、したがって必然的に無気力な人類は、文化の手段のために、自分たちの文化と自分たちの存在そのものを失わないためには、戦争どころか、最も大きい、最もおそろしい戦争――すなわち、野蛮状態への一時的復帰を[zeitweiliger Rückfälle in die Barbare]ーー必要とするということがむしろこの代用物によって、かえってはっきりわかるようになることだろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』上  477番、1878年)





ま、きみらは分析する者じゃなくて分析される対象なんだろうけどさ、この戦争を折に続出し跳梁跋扈したとってもおバカな国際政治学者たちと同じ程度に。


日本ってのはテロ組織NATOを支援しているわけだからさ、ウクライナ人がいくら死んだってかまわない、ロシア弱体化だけが唯一の目標で何だってやりかねない集団を。


ザポロジエ原発、クリミア大橋のテロ攻撃、カホフスク水力発電への砲撃等のキエフ政権の背後にはNATO の指令があるのは羊脳以外はもはや知らない者はない。この墓掘人どもの同盟者が日本だ。で、きみたちってのはいまさらだが浅はかなる御用学者にすぎないね、そろそろ告白しろよ。平和構築専門の第一人者篠田英朗がやったようにさ。


ボク珍は「浅はかな若造御用学者」では決してありません!ってのは笑えたな、実に。きみたちに対しても笑ってやるからさ、わかるかい?


この篠田英朗を持ち上げる池内恵が小泉悠なる道化師に東大のセンセの肩書き与えて世論形成に大いに貢献させたんだけどさ





この連中の特徴を実に巧みに表現しているツイートがあったよ



きみらに対してもこの線で賞賛してやるからさ、な、わかるだろ