この7ヶ月のあいだツイッター上に棲息している《飼い主のいない、ひとつの畜群![Kein Hirt und Eine Heerde!]》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』末人[letzten Menschen]の章)にいくらか興味があったんだが、最近ようやく、人間はもともとそういうもんだと悟り始めてきたよ、ようするにほんのひと握りの例外を除いては、人は権力の道具さ。
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている…。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが……。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年) |
けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987年) |
ボクだってそうさ、政治のイケニエなんて絶対嫌なんだから、結局、飼い主のいない畜群のひとりに過ぎないね、みなさんと同様に。
私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』) |
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権力の道具であることに抵抗して、権力を批判する道具になったとしても賤民の群に身を投じることだけはなんとしても避けなくちゃならない。
およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽となり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。 Es giebt kein härteres Unglück in allem Menschen-Schicksale, als wenn die Mächtigen der Erde nicht auch die ersten Menschen sind. Da wird Alles falsch und schief und ungeheuer 権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ!」とーー。 Und wenn sie gar die letzten sind und mehr Vieh als Mensch: da steigt und steigt der Pöbel im Preise, und endlich spricht gar die Pöbel-Tugend: `siehe, ich allein bin Tugend!` -〔・・・〕 |
ああ、あの絶叫漢、文筆の青蝿、小商人の悪臭、野心の悪あがき、くさい息、…ああ、たまらない厭わしさだ、賤民のあいだに生きることは。…ああ、嘔気、嘔気、嘔気! allen diesen Schreihälsen und Schreib-Schmeissfliegen, dem Krämer-Gestank, dem Ehrgeiz-Gezappel, dem üblen Athem -: pfui, unter dem Gesindel leben, - pfui, unter dem Gesindel die Ersten zu bedeuten! Ach, Ekel! Ekel! Ekel! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「王たちとの会話」1885年) |
例えば一方で小泉悠なる国際政治における世論操作スペシャリストを強烈に罵倒しつつ、他方で同じ集団が山本太郎なる国内政治デマゴーグをいまだ熱烈に応援してるのを見ると絶望的になるね。この二人はともに「共感の共同体」ーー別名「ムラ社会」ーー日本の実に典型的な煽情者に過ぎないのに。タロウが詐欺師であるのはいくらなんでももう見破らなくちゃいけない。小泉悠も同様。