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2022年6月30日木曜日

あなたのなかの小さなネオナチ

 人はちょっとしたきっかけでネオナチ(ネオファシスト)になる、これは人間学の最も基本のひとつだ。

ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストでないかどうかということなのです。(船木亨『ドゥルーズ』「はじめに」2016年)


ナチによる大量虐殺に加担したのは熱狂者でもサディストでも殺人狂でもない。自分の私生活の安全こそが何よりも大切な、ごく普通の家庭の父親達だ。彼らは年金や妻子の生活保障を確保するためには、人間の尊厳を犠牲にしてもちっとも構わなかったのだ。(ハンナ・アーレント『悪の陳腐さ』A Report on the Banality of Evil, 1963年)


耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる境界は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『享楽の転移』The Metastases of Enjoyment, 1994)



人はツイッターでさえときにネオファシスト集団になっている。


ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。〔・・・〕マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。〔・・・〕アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


ここで中井久夫が言っていることはフロイトが『集団心理学と自我の分析』で書いたことのわかりやすい言い換えである➡︎「シュミットとフロイト」、あるいは「群衆と集団」。


ここではラカンの一言だけあげておこう、《フロイトの『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。》(ラカン,S8,28 Juin 1961)



…………………



今回の「新しい国際政治学者」たちの拭い難い誤謬は、私の気づく範囲で次のものだ。



①専制ロシアによる民主ウクライナの侵略という表層的観点

(ロシアの悪-ウクライナの善という浅薄な二元論)

②民主主義と国際秩序を守るという名目でのウクライナ徹底抗戦支持

③代理戦争論とどっちもどっち論への執拗な非難

④宇国ファシスト化とNATOによるネオナチ支援育成という周知の事実の否認

⑤キエフ政権による8年前から続くロシア系住民の虐待虐殺の軽視無視



この主原因は何よりもまず小泉悠が初期段階で言い放ってしまったような認識をもって始めてしまったことではないか。あれら国際政治学者たちは小泉悠を担ぎ上げたのはまがいようもないのだから。



◼️プーチン大統領がおかしい! 「KGB出身に似合わぬ雑な展開」2022.3.2

ロシアが2月24日にウクライナ進行を始めてから7日目を迎えました。ウラジーミル・プーチン大統領のこれまでの行動をどう評価しますか。


小泉悠・東京大学専任講師(以下、小泉):進め方が非常に雑だな、と感じています。

 プーチン大統領は2月24日、今回の「特別軍事活動」を承認しました。このとき「ウクライナの非軍事化と非ナチ化を目指す」と発言しています。プーチン大統領はウクライナのゼレンスキー政権を「ネオナチ」とみなしているわけです。これはあり得ない話です。ゼレンスキー大統領は、ナチスに迫害されたユダヤ系ですから。プロパガンダであるにしても、もう少しばれないプロパガンダはできないものでしょうか。



これはどう情状酌量しようと児戯に類する見解だ。



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ゼレンスキーはユダヤ人だからネオナチはあり得ないとか、バカげている[Zelensky is a Jew and that's their motivation for saying: «Well, how can they be Neo-Nazis?» - That's nonsense! ]オリバー・ストーン監督 プーチンについて 2022/03/12

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「我々はナチスを訓練した」スコット・リッター

"We Trained Nazis" - Former US Marine Corp Intelligence Officer, 

Scott Ritter  2022/03/12

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私達がやってる事は大量のウクライナ人を死に追いやる代理戦争

Fox News 米陸軍退役大佐ダグラス・マクレガー氏インタビュー 

2022/04/22

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「ウクライナは事実上のナチ国家になっている」-スコット・リッター

"Ukraine has become a defacto Nazi state" 

- Scott Ritter & Richard Medhurst 2022/05/19



そもそもゼレンスキーに金くれ、武器くれと言われて出し続けているのは代理戦争でなかったらなんのためだい?




いい加減に「国際秩序」のためだとかいう誤魔化しはよしてもらいたいね、「国際秩序」というシニフィアンにシツレイだよ。


さらにーー私に言わせればーー、あれら新しい国際政治学者たちは「政治学」の基本が分かっていない。民主主義の恐ろしさを知らない。安易に「民主主義」というシニフィアンを使い過ぎる。「国際秩序」や「民主主義」ってのを宇露戦争に関して国際政治研究者が使ったらシニフィアンどころか「死班」だな。



民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


ボルシェヴィズム(共産主義)とファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった[Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen]〔・・・〕

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。〔・・・〕民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている[Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[...]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. ](カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)


ヨーロッパで起きる次の戦争はロシア対ファシズムだ。ただし、ファシズムは民主主義と名乗るだろう。La próxima guerra en Europa será entre Rusia y el fascismo, pero al fascismo se le llamará democracia(フィデル・カストロ Fidel Castro、Max Lesnikとの対話にて、1990年)




ここで日本で政治学を学ぶものなら誰もが知っている筈の、丸山真男の「政治的なもの」の定義を付け加えておこう。


政治的なるものの位置づけ。  政治は経済、学問、芸術のような固有の「事柄」をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は「政界」における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断するにとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である。(丸山真男「対話」1961 年)



全体主義化、すなわちファシスト化である。例えば新しい国際政治学者集団による代理戦争論とどっちもどっち論への執拗な非難、その彼らの思い込みとは異質な見解を排除しようとする振る舞いは「束」になってなされた。あれは束=ファッショの定義上、ファシズムである。


さらに言えば、ツイッターとはファシスト装置として機能する場合がある。少なくとも人はみなそれを疑ってみることをおすすめする。


あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。La langue, comme performance de tout langage, n’est ni réactionnaire ni progressiste; elle est tout simplement fasciste; car le fascisme, ce n’est pas d’empêcher de dire, c’est d’obliger à dire.(ロラン・バルト「コレージュ・ド・フランス開講講義」1977年『文学の記号学』所収)