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2022年10月31日月曜日

いじめと陰謀論用語好きの繋がり

 陰謀論というレッテルは便利な言葉なんだろうよ、次の二人が言っているように。




小山(凍)@iikagenni_siro_  2022/10/29

「〇〇をやると陰謀論に強くなる」みたいな話、そもそもなんらかの見解や思想を「陰謀論」と根拠なしに断ずる知的態度自体が論外なんだけど、そういう方向には話が進まないあたり「陰謀論」という名のレッテルは今後も永久に残り続けるんやろなと思う。

公害問題や北朝鮮の拉致なんかも長らく陰謀論扱いだったわけで、「陰謀論」とされた見解が後にひっくり返ることなんか日常茶飯事なんですよ。だからこそ何かしらの見解に異を唱えるときは論拠を必要とするわけですけど、「陰謀論」という便利な言葉はそういう知的態度を破壊しちゃうんですよね。

雑草という草がないように、「陰謀論」という論も存在しない。「根拠が薄い立論」や「主張の裏どりが不可能な立論」や「主張が相互に矛盾する立論」があるだけ。「陰謀論」というレッテルを振り回すと個々の立論に対する解像度が弱くなると思う。

反ワクチンなんかは典型ですね。「ワクチンは闇の組織が創った生物兵器」みたいのから「ワクチンの有効性はそこまで顕著とは言えないんじゃないか?」みたいのまで幅広いわけだけど、「陰謀論」とか「反ワクチン」みたいなマジックワードが出るとみんな思考停止して敵を叩き始める。レッテルのパワー。




以前、東大の鳥海不二夫氏の、日経と組んでの次のようなデータ分析がツイッターで流通していたが、そろそろ陰謀論用語を使う人物の特徴も分析してみたらどうだろ?きっと面白い結果が出ると思うがね。





この当時、次のような巧みな批判を拾ったがね


堀 茂樹@hori_shigeki May 14

相変わらずの陰謀論に呆れることも多いが、最近は「陰謀論」という言葉が、他者の言論をハナから「不良品」扱いする便利なレッテルとして濫用されているように見え、それが目に余る。現体制に順応的であることはエリートのフリをすることには役立つが、理性的&実証的であることとは何の関係もない

J Sato@j_sato May 17

政府発表を疑って追求するのが本来のジャーナリズムだよ。それやらずに政府発表・公式論を拡声するのは広報紙。政府発表・公式論を疑うことを陰謀論とラベリングして終わりにするのはジャーナリズム放棄 / ウクライナ批判のSNS投稿者、ワクチンでも誤情報発信: 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC174630X10C22A3000000/

ipatrioticmom @ipatrioticmom2 May 20

ウクライナ侵攻を巡る親ロシア的な主張と反ワクチンを拡散する層が重なるのは、どちらも承認欲求と自己満足のために欧米プロパガンダの受け売りしかしない記者と学者に対抗するためですよ。


ロシアのプロパガンダ、誰が拡散? SNS分析でみえた情報戦の姿 | 毎日新聞

https://mainichi.jp/articles/20220504/k00/00m/030/248000c

Trilliana 華@Trilliana_z  May 20

グローバリズムや政府やワクチンの不都合な事実を書くと「陰謀論者」と言われるのは何故かと思ったら答えは簡単。それらが皆陰謀に満ちているから。推理小説でも現実でも第一通報者や「犯人はコイツだ」と指差す人間が犯人。「陰謀論者」は犯罪から目を逸らす為の策なのだ。羊脳を認めない自己防御でもある。




「陰謀論」は世界的に使われる語だが、日本特有の使われ方もあるだろうしね、是非データサイエンスの専門家に分析してみることをおすすめするよ。


例えば、日本的共感の共同体の民主主義的ムラ社会におけるいじめと陰謀論用語好きにはきっと繋がりがある筈だがね。


…………


ここでは古典的日本文化論をいくつか貼り付けておこう。



非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。〔・・・〕個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。 差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。〔・・・〕


些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」1997年 『アリアドネからの糸』所収 )


ーー陰謀論用語好きの人物の特徴は、何よりもこれだろうな、おそらく。


以下はより一般論を列挙する。



柄谷行人) 欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)



「異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならない」とはシュミットの民主主義論にも基盤がある。



民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)



シュミットの友敵理念の観点からは、敵とは異質な者であるが、悪である必要はまったくない。

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である[Die spezifisch politische Unterscheidung, auf welche sich die politischen Handlungen und Motive zurückführen lassen, ist die Unterscheidung von Freund und Feind]〔・・・〕

政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとはかぎらず、敵と取引きするのが有利だと思われることさえ、おそらくはありうる。敵とは、他者・異質な者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質な者であるということだけで足りる[Der politische Feind braucht nicht moralisch böse, er braucht nicht ästhetisch hässlich zu sein. Er ist eben der andere, der Fremde, und es genügt zu seinem Wesen, dass er in einem besonders intensiven Sinne existentiell etwas anderes und Fremdes ist. ](カール・シュミット『政治的なものの概念』1932年)



何はともあれ、日本というのは実に民主主義的な共感のムラ社会だからな、上の柄谷が《これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします》というのは、支配的イデオロギーの「空気を読む」日本文化の典型的特徴だろうよ。ーー《日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。》(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)



◼️ムラ社会の村八分

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕


労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


◼️日本的共感の共同体

ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」『すばる』1988 年 7 月号)



日本では、陰謀論用語をしきりに使いたがるいじめ羊脳を嘲笑すること自体が、ムラ八分的に機能しかねないからことさら厄介なんだけどさ。


さらにSNS、その代表のツイッター装置自体が、世界的なムラ社会化を引き起こしている可能性も大いにありうるだろうし。



「陰謀論」は、フローベールの紋切型辞典に追加すべき用語じゃないかね、とくにツイッターという説話論的磁場に典型的な現代的言説用語として。


知ることも語ることもできるはずの主体を装置に譲りわたし、みずから説話論的な要素として分節化されることをうけいれながら、それを語ることだと錯覚する擬似主体こそが現代的な言説の担い手なのであって、誰もが『紋切型辞典』の編纂者たる潜在的な資格を持つその匿名の複数者は、それを意図することもないままに善意の連帯の環をあたり一帯におし拡げてゆく。おそらくはわれわれもまた、その波紋の煽りを蒙りながら思考し、語りつづけているのだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)

説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)



浅田彰が4年前うまいこと言ってたな。


そもそも「都市」を認めない「トランプ村」の村人たちは「そんなものはマス・メディア村のフェイク・ニュースに過ぎない」と信じ込まされ、「事実」や「真実」の歯止め(カール・ポパーの言う反証主義の意味で)を失った言語ゲーム(「ああ言えばこう言う」という言語のレヴェルでの言い合い)のエスカレーションの中で、「マス・メディア村」への不信と憎悪を募らせるばかりなのだ。トランプの支持率が全体で4割前後なのに共和党支持者の間では9割近い高水準を保っている異様な政治状況の背後には、都市の広場(アゴラ)という共通の土俵の上での論争ではなく、そもそも土俵を共有しない村同士の部族的(tribal)な対立が全面化してきたというメディア論的変容があるのではないか。(浅田彰「トランプから/トランプへ(3)マクルーハンとトランプ、あるいはマス・メディア都市に対するトランプ村」2018年10月20日


最も肝腎なのは村クラスタにはまり込まないことだろうな、日本では国際政治学者でさえ蛸壺ムラに居心地よさそうに居座ってムラ八分やってるけどさ。



自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。

ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。

自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。

人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」1966年)


おい、わかるか、みなさん。そろそろ出発しろよ、タコツボを断ち切ることだよ、壺内で湿った瞳を交わし合い、頷き合っていないでさ、



とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。Enfin, je demanderai pardon pour m'être nourri de mensonge. Et allons.


ーーランボー「別れ Adieu」