このところ高橋悠治の月一の「水牛のように」を遡るようにして読んでいる。以前も一度やったことがあるのだが、そのときは2014年までで、PDFにして線を引きながら読んだ。今回は2022年から2015年までを当面、高橋悠治の日記のようにして読み、さらに過去のものも線を引いてある箇所を中心にいくつか拾って読んだ。彼はいわゆる「ラディカル左翼」であり、読書量がきわめて多く、ああそうか、そうなのかと感心しながら読むことが多いのだが、2014年以降、かつての過激さがいくらか薄れ、穏やかな印象を受けることが多い(ときに弱さや人恋しさも)。1938年生まれの悠治であり、つまり76歳以降の彼であり、これはある意味当然かもしれない(2013年5月には99歳まで生きられた母英子さんが亡くなっているのも何らかの形で影響しているかもしれない)。
ここでは2022年6月の民主主義をめぐる記述と、もうひとつ、これは2009年の記述で過去に線を引いて感心したにもかかわらず失念していた記述を並べる。
◼️ニュースというウソから 高橋悠治 「水牛のように 」2022/06
危ない時代だ。毎日ニュースを見てしまう。世界はアメリカ側とそうでない方に分かれて、日本はアメリカ側だから、報道されないこと、歪められているニュースばかりで、そうでないニュースはネットで探すよりない。
第2次世界大戦が終わったあと、ラジオも新聞も1日で変わった。その後、アメリカ占領下で、また変わったが、新聞に書かれていることから書かれてないことを読み取る技術があって、子どもでも使うことができた。そんな情勢は1950年代の後半まで続いた。
今はまたそういう時代が来ている。これがいつまで続くのかわからない。日本では、今まで見ていた個人のコラムも、信頼できなくなったものが多い。昔アメリカではNew York Times、イギリスでGuardian、フランスでLe MondeとNouvel Observateurを読んでいた。コンサート評も翌日には載っていた。今はどうなっているだろう。テレビや新聞も政府と同じことを書いている。フェイクニュース・偽旗作戦・プロパガンダ、知らせないだけでなく、ウソを書くのが当たり前に通用する。反論は削除されるだけでなく、書き手も排除される。メディアさえも、禁止されて見えないものもあれば、ある日突然見られなくなることもあった。日本では、同調圧力が他より強いと言われるが、今はどこでもそれがあるのが見える。
逆に、メディアが禁止されてない場合なら、日本のことは他所の報道で見たらわかることもある。日本語の報道は多くないし、同じ所の英語報道と比べると、はっきり書くのを避けている感じがする。日本人の排外感情を刺激しないようにしているのだろうか。英語報道も英語圏でないか、小さな独立メディアを見つけないと、ウソと戦争ヒステリーで読めない。
グローバリズムは1990年代から潮が引いて、民主主義は Change! と唱えながら、 クーデターと暗殺と買収の別名になったようだ。歴史は海から大陸へ、西から東へ移っていくのか。
そのなかで、音楽は無用の仕事になるほどに、抵抗と意義を増すのだろうか。分析と精密の代わりに、曖昧なひろがり、息のつける空間、かすかな流れの時間を、どうやって創り出せるだろう。
◼️寄りあい 高橋悠治 水牛 2009年4月
西欧民主主義の起源とされている古代アテネでは、奴隷や女はもちろん広場での討論に参加することはできなかった。そこでは武器を持った男たちがことばをもち、そのなかでもいちばん暴力的な人間が指導者になり、全員がそれにしたがうのが「民主主義」だった。demos + kratia は文字通りデマゴーグの暴力で、民主主義と暴君政治はおなじことだった。いまアメリカが武力で世界にひろめようとしている民主主義もそれと変わらない。プラトンのような知識人はいつも民衆の自由な討議と自己決定には反対だった。世界がいまこのようである理由やその歴史を理解すると、現実はあるべくしてこうなっていることを知らない人間がそれを変えようとする、そんな試みは無知から生まれるもので、それが可能だと思うのは理性的でない、ということになる。知識人は、知識のないひとびとを軽蔑しながら、うごいていく現実は見ないために、ためこんだ知識を盾にする。かれらは権力にすりよったり、自己保身だけを考えている。アナキスト人類学者David Graeberはそう書いている。
ひとびとが自分たちの問題を対等な立場で話し合い、合意にいたる参加型の民主主義はMarshall Sahlinsが研究したポリネシアにも、Graeber自身の調査したマダガスカルの村にもあった。鶴見良行の東南アジア村落民主主義も、宮本常一が『忘れられた日本人』に書いている村の長老たちの寄り合いもそうだ。ロシア革命当時のソヴィエト(会議)やローザ・ルクセンブルグの評議会もそのような理想からはじまったかもしれないが、代議制は権力の母胎となって、会議は指導部の翼賛機関になった。議会制民主主義も、選挙の時だけは、できもしないし、やる気のない約束をし、選ばれれば権力争いと利権しかない職業政治家をつくるだけなのに、なぜひとびとは裏切られるために投票し続けるのか。
イギリス出身のマルクス主義哲学者John Hollowayは、メキシコのサパティスタ蜂起のあと、反権力ではなく非権力のまま日常の抵抗を続けながら世界を変える、という「Change the world without taking power」を書いた。革命で権力をとれば、反権力がこんどは権力に変質していった、それが20世紀の社会主義の教訓だった。こういう社会主義体制でなければ、資本主義体制内での反対党のささやかな利権のために、ひとびとの苦しみをなだめながら、革命を延期し続ける社会民主主義しかなかった20世紀に、1968年は一つの裂け目をつくったはずだった。
だがその後、1970年代からはじまる金融資本主義のゆっくりした崩壊のなかで、抑圧された反体制エネルギーはちりぢりになり、分裂し孤立して消えていった。指導ではなく、合意にもとづく民主主義は、フェミニズムや他の周辺の運動のなかで生き残っていて、1994年のサパティスタ蜂起でやっと表に出てきた。1999年のシアトルから2001年のジェノヴァへの反グローバリズム抗議行動の後、それはアフガニスタンとイラクの戦争のなかで、また見えにくくなっている。
民主主義はいつも、ここではない場所に見える蜃気楼のように見える。たとえその場で体験したとしても、記憶のなかの追体験しか残らない、幻想ではなかったか、それを永続的なものとする保証はどこにもなく、意識的に言語化し制度化することは、どこかそれを裏切るものではないかと疑ってしまう。それはしょせん前近代の伝統社会にさかのぼるか、辺境や周辺の小さなグループでだけ実現可能なやりかたで、グローバル都市や現代文明のなかでは、その規模から言っても全体会議など不可能だし、やはり代議制にゆずるよりないと言うのだろうか。日常の抵抗は、社会の表面に顕われると力を失う陰のはたらきで、はっきり定義もできないような非自覚的な次元にとどまるべき性質のエネルギーなのか。
寄りあいについて書いた宮本常一の文章を読むと、長老たちや女たちは、ふだんはお互いにかなりの距離に散らばって住んでいること、家長や村の公的な立場から引退した自由な身分であること、何時間も、時には何日もかけて、ある問題を話し合うというより、あらゆる生活の話題を雑談のようにつづけていて、主張をぶつけて討論するよりは、そのことについて思い出す例や知識を交換しているようで、それにしても、知っていることのほんの一部しか言わない配慮をしているらしい、論理をつきつめていくことや、結論を出すことは歓迎されず、合議を形成するというのではなく、自然に合意がはかられるまで待つ、その感覚が消えないうちに、共有する、そういう手続きのほうがだいじで、決定された事項は、いわば共生感覚を掛けておく釘のようなものに見えてくる。
だが、その記述自体も、忘れられたことがら、失われた生活を、外側から推測しているだけで、内側にいて体験する感じとはちがうものだろう。その感じをことばにしてみれば、ゆるやかな時間、ひろびろとした空間、自分のちょっとしたうごきをとおして現れてくるひとびとの、沈黙の思い、といったものかもしれない。