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2022年11月28日月曜日

興味深い十川幸司と立木康介のコンビ


さて前回十川幸司なる人物の書に触れたので、ここで彼の近しい仲間らしい立木康介なる人物の名をも出しつついくらか補足しておこう。

日本フロイト派代表的臨床家十川幸司と現日本ラカン協会理事長立木康介は、なかなか興味深いコンビであることを私は否定する者ではない。


2年ほど前、二人の次の発言は全面的に誤謬であることを示したことがある[参照]。

立木  ナルシシズムとは、外部の対象に向けていた欲望のリビードを、対象に拒絶されたり、対象を失ったときに、自我に引き上げることで、自我のうちに興奮の刺激量が増加する状態のことで す。とすれば、これは必然的に不調和で不快な経験であると。目の覚めるような、痛快なメッセージでした。 


十川  ナルシシズムは、精神分析固有の領域を超えて濫用されている概念ですが、大部分はフロイトが作り出した概念とは無関係な形で使われています。フロイトは、あくまでナルシシズムをリビードの量の問題として考えていたわけで、単純な心理学的発想に基づくものではありません。日本語だと自己愛と訳されていますが、ナルシシズムは「自己」とも「愛」とも直接の関係はありません。この概念は極めて便利なので、病理の本質とは無関係に応用されてし まう。ナルシシズムは倒錯の問題であり、自我と欲動の病理です。ナルシシズムは人に快を与 えるのではなく、不安や不快をもたらすという点を、明確にしておく必要があります。 (対談=十川幸司×立木康介「フロイトはいまだ読まれてはいない 」--『フロイディアン・ステップ』刊行記念対談、2020年1月)


これが誤謬であるのはまず次の一文を引用しておけばいい、《ナルシシズムあるいは自己愛[ »Narzißmus« oder Selbstliebe ]》(フロイト『自己を語る』1925年)。


もう少し言えば、二人は欲動の身体に関わる一次ナルシシズム[primären Narzissmus]と心的領域にある自己愛としての二次ナルシシズム[sekundärer Narzißmus]自我のナルシシズム[ Narzißmus des Ichs)が区別出来ていないのではないか。


さらに次の事態も分かっていないように見える(参照)。

後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛/ナルシシズム」は、「一次ナルシシズム/二次ナルシシズム」におおむね代替されている。Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt.(Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014)



ラカン語彙も含めて、自己愛(二次ナルシシズム)と自体性愛(一次ナルシシズム)の相違は次のようになる。


フロイトはリアルな愛における自体性愛を愛の欲動ともしたが、これは究極的には、かつて自己身体だと見做していたが、喪われてしまった母の身体を取り戻そうとする死の欲動である。究極の愛の欲動は死の欲動なのである[参照]。



ここでもう一つ挙げよう。

この二人は2009年時点だが、次のように言っている。


立木)ラカンの理論で現実界の問題がいっせいに出てくるとき、抑圧の概念は事実上ほぼ打ち捨てられたようにさえ見えます。〔・・・〕


十川)抑圧という概念の治療論的な意義について言えば、今、この概念を正面きって使う分析家は、自我心理学に属する分析家の一部を除いて、ほとんどいません。

 (「来るべき精神分析のために」(十川幸司/原和之/立木康介)2009/05/29、岩波書店)


そしてこの鼎談には「原抑圧」という語は一度も出現してない。


ラカンにおいて後期になればなるほど原抑圧概念は重要になるにもかかわらず。現代仏主流ラカン派は、21世紀は「原抑圧の時代」だと宣言しているにも関わらず。


ラカンの現実界は原抑圧である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


そして原抑圧は固着である。

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


十川幸司と立木康介の二人は、ここをまったく外してしまっているように見える。



フロイトの抑圧は原抑圧と後期抑圧である。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen (Nachverdrängung) sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


この原抑圧と後期抑圧の関係は次のように区分できる[参照]。






さて冒頭に戻ってこう言っておこう。十川幸司と立木康介のコンビが興味深いのは、日本フロイトラカン研究の中心人物であるだろう二人が、なぜこれほど無知であるのか、である。ときに互いの無知を舐め合って意気投合しているかのようにも見えてしまう。


さてどうだろう? これが私のあのコンビに対する見方であり、もし誤解があるようなら指摘してほしいものである。



最後に以前にも「十川幸司と立木康介という人」で掲げた蓮實重彦の文を再掲しておこう。

若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。(蓮實重彦インタビュー、東大新聞2017年1月1日号)