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2022年11月28日月曜日

日本のチョロいフロイト注釈者

 ドゥルーズはマゾッホ論で、死の欲動[pulsions de mort]と死の本能[instinct de mort]を区別したが[参照]、ラカニアン観点からのフロイト読解に於ては、この区別は必要ない。ドゥルーズ自身においても、プルースト論における三区分では「死の欲動」という語が消えており単に「欲動」、『差異と反復』ではエロスとタナトスの二区分である。


ドゥルーズの1960年代の後半の仕事においては、結局、『差異と反復』が最もフロイトの核心に近づいている、と私は思う。

まず序章にはこうある。


エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる「正式の」抑圧の彼岸に、「原抑圧」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前、あるいは欲動が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。

Érôs et Thanatos se distinguent en ceci  qu'Érôs doit être répété, ne peut être vécu que dans la répétition,  mais que Thanatos (comme principe transcendantal) est ce qui  donne la répétition à Éros, ce qui soumet Éros à la répétition.  Seul un tel point de vue est capable de nous faire avancer dans  les problèmes obscurs de l'origine du refoulement, de sa nature,  de ses causes et des termes exacts sur lesquels il porte. Car  lorsque Freud, au-delà du refoulement « proprement dit » qui  porte sur des représentations, montre la nécessité de poser un  refoulement originaire, concernant d'abord des présentations  pures, ou la manière dont les pulsions sont nécessairement  vécues, nous croyons qu'il s'approche au maximum d'une raison  positive interne de la répétition(ドゥルーズ『差異と反復』「序」1968年)



ここに記されているのは超越論的原理としてのタナトスーーエロスに反復を与えるものとしての反復の内的原理タナトスーーはフロイトの原抑圧だということだ。


フロイトにおける原抑圧は固着のことである。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)



ドゥルーズは『差異と反復』の2章で、まさにこの固着と反復を結びつけている。


固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。

Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. (…)  : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)



これはフロイトの『制止、症状、不安』に現れている。


欲動蠢動は「自動反復 Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして(原)抑圧においての固着の契機は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。

Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)



欲動蠢動としての自動反復[Automatismus]とは固着を通した「無意識のエスの反復強迫」であり、これがフロイトの死の欲動である。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)




フロイトは死の欲動とマゾヒズムを結びつけた(参照)。




マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている[Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat.]〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



だがマゾヒズム自体、リビドーの固着である。


無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年)



最近、日本でチョロいフロイト注釈書を出している十川幸司なる人物がいて、ドゥルーズの「死の本能」概念を取り上げているようだが、あれをいまどきマガオで扱かうのはドゥルーズ読解の初心者レベルに過ぎず、さらにーー私に言わせればーー、彼はフロイト読解でさえ中級者レベルにしかなく、シツレイながら、フロイト理論の核心「固着」外してしまっているように見える(もっとも私は、目次を見ただけでいかにも悪い臭いがしそうな『フロイディアン・ステップ』なる書をまったく読んでいない者として今こう言っているので、誤解があったらお許し願いたい)。


固着は、フロイトが原症状と考えたものである[Fixations, which Freud considered to be primal symptoms,](Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)




肝腎なのは固着である。

初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen.](フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance]. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)



ラカンの享楽はフロイトのリアルな愛である[参照]。




人にはみなそれぞれの仕方で愛の欲動の固着、つまりリビドーの固着がある。例えばあなたが誰かを愛するのは固着のせいである。


愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである[L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. ](David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)




リビドー、すなわちエロスエネルギー、ーー《すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと呼ぶ[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido]》(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


このリビドーの固着がラカンの享楽であり、反復強迫としての死の欲動である。


享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



さらに言えば、超自我も固着である。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


これゆえ、《死の欲動は超自我の欲動[la pulsion de mort (…) , c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)となる。


ジャック=アラン・ミレールはラカンから引き継いだ最初のセミネールで断言している、《超自我と原抑圧との一致がある[ il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire ]》. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)。


つまり40年前、超自我も原抑圧も固着だと既に言っているのである(この超自我の把握については、ドゥルーズは当時のフロイト仏注釈者に準拠してしまって大きくミスった[参照]。そしてガタリと組んだあとには、アンチオイディプスの彼岸には自由があるなどという戯言を言うようになってしまって、1970年以降の言論界の最大の不幸のひとつとして、フェミニズム運動などに大きく影響を与えてしまった。エディプス的父なる超自我の彼岸には、前エディプス的母なる超自我=死の欲動しかないのに[参照])。


現在、フロイトの固着概念を外している注釈書など焚書処分の対象ではなかろうか?