このブログを検索

2022年11月27日日曜日

個人の生は芸術作品

 

フーコーは、「個人の生は芸術作品」と言っているが、彼の場合は特別芸術作品だろうよ。


私を驚かせることは、私たちの社会において、芸術がもはや事物としか関係しておらず、諸個人または生と関係していないということです。そしてまた、芸術が特殊なひとつの領域であり、芸術家という専門家たちの領域であるということも私を驚かしました。しかしすべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうるのではないでしょうか。

Ce qui m’étonne, c’est le fait que dans notre société, l’art est devenu quelque chose qui n’est en rapport qu’avec les objets. Et non pas avec les individus ou avec la vie. Et aussi que l’art est un domaine spécialisé, fait par des experts qui sont des artistes. Mais la vie de tout individu ne pourrait-elle pas être une œuvre d’art ?(ミシェル・フーコー, propos de la généalogie de l'éthique : un aperçu du travail en cours, 1983年)



ドゥルーズは「フーコーが部屋に入ってくると大気の状態の変化があった」と言っているぐらいで。


フーコー当人からして、すでに正確な意味で人称とはいえないような人物だったわけですからね。とるにたりない状況でも、すでにそうだった。たとえばフーコーが部屋に入ってくるとします。そのときのフーコーは、人間というよりも、むしろ大気の状態の変化とか、一種の出来事、あるいは電界か磁場など、さまざまなものに見えたものです。かといって優しさや充足感がなかったわけでもありません。しかし、それは人称の序列に属するものではなかったのです。

Foucault lui-même, on ne le saisissait pas exactement comme une personne. Même dans des occasions insignifiantes, quand il entrait dans une pièce, c’était plutôt comme un changement d’atmosphère, une sorte d’événement, un champ électrique ou magnétique, ce que voudrez. Cela n’excluait pas du tout la douceur ou le bien être, mais ce n’était pas de l’ordre de la personne. (ドゥルーズ『記号と事件』Gilles Deleuze Pourparlers 1972 - 1990)



蓮實曰くの「人間が太刀打ちできない聡明なる猿」もドゥルーズの印象と同様だね。


語りながら、フーコーは何度か聡明なる猿のような乾いた笑いを笑った。聡明なる猿、という言葉を、あの『偉大なる文法学者の猿』(オクタビオ・パス)の猿に似たものと理解していただきたい。しかし、人間が太刀打ちできない聡明なる猿という印象を、はたして讃辞として使いうるかどうか。かなり慎重にならざるをえないところをあえて使ってしまうのは、やはりそれが感嘆の念以外の何ものでもないからだ。反応の素早さ、不意の沈黙、それも数秒と続いたわけでもないのに息がつまるような沈黙。聡明なる戦略的兵士でありまた考古学者でもある猿は、たえず人間を挑発し、その挑発に照れてみせる。カセットに定着した私自身の妙に湿った声が、何か人間たることの限界をみせつけるようで、つらい。(蓮實重彦「聡明なる猿の挑発」フーコーへのインタヴュー「海」初出1977年12月号)



電界か磁場が見えるというのは、その強度はいくらか低いかもしれないけど、私も何人かの人との遭遇で経験したことがないではないが。一番強烈だったのは30歳前後のときだな、京都の花見小路の飲み屋で、ガダルカナル島での生き残りの一部上場企業の創業社長にトイレで出逢って、ビビっておしっこ出なくなったよ。実際、《人称の序列に属する》形象じゃなかったね。


人がなんらかの形での「芸術作品」でありたいと願うなら、何よりもまずネットなんか書き込んだらダメじゃないかね。それぞれの仕方で、ひょっとしてかすかにもってるかもしれない「電磁場」がツイートのたぐいをしたらーーブログだって殆ど一緒だが臨場感は欠けるーー、たちまち消えちまうからな。芸術家から芸能人へ、って具合にさ。


ツイッター装置ってのは特に「この私を見て!」って場以外の何ものでもないのだからさ、いかにも物欲しげな人称としてね、あそこで囀ってる連中はみな「芸能人」だよ。