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2022年12月2日金曜日

おぞましきもの[abjection]と不気味なもの[Unheimliche]

 

ひょんなことからクリステヴァ概念はどんな風に使われているのかをいくらか探っていると、「アブジェクシオンとしての土方巽の舞踏」(森下隆 2018年)という小論に出会ったんだが、アブジェクションはこの際後回しにして、とってもいい写真が掲げられている論だな



いい男だったんだなあ、若い頃の土方巽 富岡多恵子もとってもいい感じ出してるし

中年になっての阿部定との写真もいいけどさ


こういうのを見るとクリステヴァなんてどうでもよくなるな

そりゃこっちのほうがずっといいさ、➡︎Summer Storm - Tatsumi Hijikata (1973)



ここでは土方巽の活躍ぶりの前段にある映像だけ貼り付けておくよ




どうして最近はこういうのなくなったんだろうな、AVのたぐいをコソコソみるだけでさ。きっとポリコレフェミのせいだよ。とすれば、やっぱりクリステヴァとともに闘争のエッチカしなとな






西川直子さんのような研究者もまったくいなくなっちまったからな


……こういった土方巽と舞踏をめぐる言葉や言辞を、記号としての両義性(あるいは多義性)をもって、さらには伝達の困難さや不可能性をもって、アブジェクトと措定しておきたい。いうまでもなく、アブジェクトはジュリア・クリステヴァの用語で、それを借りている。 舞踏が今もって理解しがたい、あるいは定義しがたいのは、舞踏のファウンダーである土方巽自身の行為と言葉の 「アブジェクト」性に由来するといえよう。クリステヴァが 提出した「アブジェクト」は、恐怖でありつつ魅惑的であり、おぞましくもありつつ快楽でもある「母」なるものということだが(※西川直子『クリステヴァ―ポリゴロス』1999 年)、土方巽の言動も、まさにそういった性格、属性を有している。(森下隆「アブジェクシオンとしての土方巽の舞踏」2018年)



ところでアブジェクション[abjection](おぞましきもの)と不気味なもの[Unheimliche]とどう違うんだろ?



母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)



要するにフロイトの不気味な母なる異者がラカンのリアルなんだけどな


私たちが確かに予想していなかった、不気味なもの概念についてまったく新しいことを言っているシェリングの定義がある。すなわち、「隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、すべて不気味なものと呼ばれる。Unheimlich sei alles, was ein Geheimnis, im Verborgenen bleiben sollte und hervorgetreten ist. 。(フロイト『不気味なもの』第1章、1919年)

不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,(フロイト『不気味なもの』第3章、1919年)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)




無難なところではシェリングの定義だよ、不気味なものってのは。《秘められているはずのものが表に現れてきた時は、すべて不気味なものと呼ばれる》だ、女性器はそのひとつに過ぎない。例えば黒木香さんの腋毛だって不気味なものだったな。





最初期のチツちゃんはまだよかったんだけどな・・・


それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの〔・・・〕。


おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない.そしてたくさんのおまんこをとおして“女性自身(わたしじしん)”が見えてくることだろう。(上野千鶴子『女遊び』1988年)



土方巽組のイマージュはーー少なくとも語感からすればーー「おぞましきもの」というよりも「不気味なもの」と呼びたいところだね






訳語が悪いんだろうな、「おぞましきもの」は。abject とはab+ject (外に+投げる)だから、フロイトの排除と一緒だよ。サリヴァンの使う解離だ。


サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)



この中井久夫が言ってるのがフロイトの不気味なものの回帰だ。


同一のものの回帰という不気味なもの[das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr ]…これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕

不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである[daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann.](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


ーー《不気味な親密[heimisch im Unheimlichen]》(フロイト、1927年)の回帰だ。土方巽組はそればっかりだよ。



で、研究者ってのは世界的にニブイやつしかいないね。誰もアブジェクトと不気味なものを結びつけていないんだから。


アブジェクトは徹底的に排除されたものであり、意味が崩壊する場へと私を引き寄せる。l'abject (…) est radicalement un exclu et me tire là où le sens s'effondre 〔・・・〕


アブジェクトは外部にある。 自分がどうやら承認していないゲームのルールをもった集合体の外にあるのだ。 だが、この追放の地からアブジェクトは自分の主人に挑みかかるのを止めはしない。

L’abject est dehors, hors de l'ensemble dont il semble ne pas reconnaître les règles du jeu : hors jeu. Pourtant, de cet exil, l'abject ne cesse de me défier ainsi que son maître.  (クリステヴァ『恐怖の権力: アブジェクシオン試論』Julia Kristeva, Pouvoirs de l'horreur, Essai sur l'abjection, 1980)