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2022年12月2日金曜日

クリステヴァの詩的言語とラカンのララング

 

以下、次のクリステヴァの文をめぐる記述である。

欲動の抑圧と母との継続的関係の抑圧の代価の下で、象徴的機能としての言語はそれ自体を構成する。逆に、抑圧された欲動と母性の再活性化の代価の下で、詩的言語の不安定ではっきりしない主体が自らを主張する。詩的言語の言葉は決して単なる記号ではないのである。

C'est au prix du refoulement de la pulsion et du rapport continu à la mère que se

constitue le langage comme fonction symbolique. Ce sera, au contraire, au prix de la réactivation de ce refoulé pulsionnel, maternel, que se soutiendra le sujet en procès du langage poétique pour lequel le mot n'est jamais uniquement signe   (クリステヴァ『詩的言語の革命』Julia Kristeva, La Révolution du langage poétique. 1974年)



このクリステヴァの言っている「欲動の抑圧と母との関係の抑圧」における抑圧は、厳密に言えば、原抑圧あるいは排除[Verwerfung]である。


原抑圧された欲動 [primär verdrängten Triebe](フロイト『症例シュレーバー 』1911年)

=排除された欲動 [verworfenen Trieb](フロイト『快原理の彼岸』1920年)


もっともフロイトラカン両者とも抑圧を原抑圧(排除)意味で使っていることが多いのでーー特に後期フロイトはほとんど常に抑圧=原抑圧(排除)であるーー、クリステヴァの用語遣いの不備を指摘しているわけではない。


(フロイトの三つの主要概念「無意識・抑圧・神経症」の整理)



さて「母との関係の抑圧」における母とは欲動(欲動の対象)である。


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した[le réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)



さらにクリステヴァ曰くの「象徴的機能としての言語」とは大他者(父の名)でもある。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)



したがって古典的には次のように図示される。





二つの図は同じことを示している。言語の大他者あるいは父の名による「母なるモノ」ーー欲動の原大他者ーーの原抑圧図である。


なおこの原抑圧は巷間で誤解され続けている「父の名の排除」ではまったくないので注意されたし[参照]。


父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある[il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)



…………………



さてここでの本題である。クリステヴァの言う、抑圧された欲動と母性の再活性化の下での「詩的言語」とは何か。


ラカンはこう言っている。

詩は身体の共鳴が表現される[la poésie, la résonance du corps s'exprime](Lacan, S24, 19 Avril 1977)

詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.]  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)



ここでの身体と穴は同じ意味であり、欲動の身体である。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



もちろん欲動=享楽であり、欲動の穴は享楽の穴である。


享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)



仏女流ラカン派代表者のコレット・ソレールは先のラカンを次のように注釈している。

詩の言葉は、分析主体の言葉と同様、「言語という意味の効果」と「ララングという意味外の享楽の効果」を結び繋ぐ。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である。Le dire du poème, donc, tout aussi bien que le dire de l'analysant, noue, fait tenir ensemble les effets de sens du langage et des effets de jouis-sance hors sens de lalangue. Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome. (Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)



ソレールはララングとサントームというラカンジャーゴンを口にしているが、まずララングとは、母の言葉を意味し、通常の言語外にある現実界的シニフィアンである。


ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ララングは象徴界的なものではなく、現実界的なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外のものであり、したがって意味外にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる)。Lalangue, ça n'est pas du Symbolique, c'est du Réel. Du Réel parce qu'elle est faite de uns, hors chaîne et donc hors sens (le signifiant devient réel quand il est hors chaîne),(Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)

ララングは、言語の構造から逃れ去るシニフィアンである。lalangue qui est le signifiant, dépouillé de la structure de langage (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 juin 2009)



さらにサントームとは現実界の症状であり、モノの名、つまり母の名である。


サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)


こういった注釈は、現代ラカン派によって2010年前後になってようやく明示されるようになった。だが、クリステヴァーー彼女は1970年前後からラカンのセミネールの熱心な聴講者だったーーは、1974年に上梓された『詩的言語の革命』で既に事実上提示しているのである。




なおクリステヴァの詩的言語、ラカン派のララングは、中井久夫が1990年代になって積極的に示し始めたことと相同的であるが、胎児期の母語までも指摘している点が特徴的である。

言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)



中井久夫は、まさに「詩の基底にあるもの」という論で、母の言葉と詩のつながりを語っている。


精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。


言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。



さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。


この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。


これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。〔・・・〕


言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)



以上、われわれ日々使っている「語」は次のような形で成り立っている。




そして詩的な人は、おおむね母の言葉の人である。この観点から詩人たちの容貌や振舞いに思いを馳せてみてはどうだろう。きっとすぐ納得する筈である。例えば小津安二郎のとても「美しい」写真がある。





小津の母あさゑは1962年2月に死去しており、小津はその後わずかしか生きなかった(1963年12月12日(還暦の日)に死去)。



※なお「父の言語」という場合、注意しなければならないことがある。これは基本的に母子二者関係に介入する第三者という意味であり、例えば祖母でも父の言語として機能する(三島由紀夫の事例ではそれが典型的である)。