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2022年12月11日日曜日

現実界はエスである

 

ラカンの現実界はフロイトのエスのことである(これは当たり前のように見えて、意想外にラカン派プロパの学者でも鮮明化していない人がほとんどである)。

「現実界=エス」が一番わかりやすいのは、フロイトの「異者としての身体」概念を通してだ。

ラカンはこう言っている。

◼️現実界=トラウマ=モノ=異者(異者としての身体)

現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)



フロイトにおいて異者としての身体は、トラウマ、エスの欲動蠢動、あるいは無意識のエスの反復強迫のことだ。



◼️異者としての身体=トラウマ=エスの欲動蠢動=無意識のエスの反復強迫

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体[Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

欲動蠢動は「無意識のエスの反復強迫」である[Triebregung … ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)




後期ラカンは現実界と享楽を等置している場合が多いが、《現実界の享楽[Jouissance du réel]》(Lacan, S23, 10 Février 1976)というときに、もし現実界と享楽を区別するなら、現実界はエス、享楽は欲動である。つまり現実界の享楽は「エスの欲動」、あるいは「エスの反復」とすることができる。簡単に言えば、現実界はエス自体、享楽はエスの蠢きである。


フロイトにとってヒトの原初はすべてがエスである。


人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された。die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates (…) Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説』第4章、1939年)



ヒトの発達に伴ってエスから自我への移行があるが、移行せずにエスの核に置き残されるものが「異者としての身体」だ。



異者としての身体は本来の無意識としてエスのなかに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)



置き残しの別名は残滓、固着の残滓だ。


常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. (…) daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)



先にラカンが異者とモノを等置しているのを見たが、モノの定義も残滓(置き残し)、自我に同化不能の残滓であり、これが固着のトラウマであり、異者である。


◼️モノ=残滓=同化不能=固着=現実界=トラウマ=異者

我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

[自我に]同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma, ](Lacan, S11, 12 Février 1964)

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)



フロイトはモノ概念自体について初期以外はほとんど触れていないので、「異者としての身体」概念ーーこれは初期から晩年まで使用し続けているーーを軸にして読むと、フロイトラカン用語の関係が把握しやすい。




なお最晩年のフロイトにとって超自我自体も固着に関わり、その意味では事実上エスに置き残される審級にある。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)