◼️現実界は母なるモノ
さて、前回の「現実界はエス」に引き続き、ここでは「現実界は母なるモノ」である。
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
前回、ラカンの「現実界の享楽」は、フロイトの次の用語群と等価であることを示した。
「母なるモノ」については説明が長くなるので、前回は敢えて外したのだが、ここに「母」が付記されることになる。
例えばフロイトは次のように記している。
我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895) |
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
エロスはリビドーのことであり、母へのエロス的固着の残滓[ Rest der erotischen Fixierung an die Mutter]は、母へのリビドー固着の残滓[Rest der Libidofixierung an die Mutter]のことである。 |
すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年) |
母へのリビドー固着の残滓つまり、モノ=残滓=リビドー固着=母である(「リビドー固着の残滓」における「の」は同格の「の」であることに注意)。
ここでジャック=アラン・ミレールの注釈にて確認しておこう。
●母=モノ=欲動=享楽=エス=異者=残滓=享楽の残滓=リビドーの固着 |
母はモノの場に来る[la mère vient à la place de das Ding](J.-A. Miller, L'expérience du réel dans la cure analytique - 23/03/99) |
現実界は、ドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した[le réel …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011) |
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009) |
フロイトモノを異者とも呼んだ[das Ding (…) ce que Freud appelle Fremde – étranger. ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006) |
残滓…現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
いわゆる享楽の残滓 [un reste de jouissance]がある。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だが基本的にそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって触発され、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。 C'est disons un reste de jouissance. Et Lacan ne dit qu'une seule fois mais au fond ça suffit, d'où il s'en inspire chez Freud quand il dit au fond que ce dont il fait ici une fonction, ce sont des points de fixation de la libido. 固着点はフロイトにとって、分離されて発達段階の弁証法に抵抗するものである[C'est-à-dire ce qui chez Freud précisément est isolé comme résistant à la dialectique du développement. ] 固着は、どの享楽の経済においても、象徴的止揚に抵抗し、ファルス化をもたらさないものである[La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante, ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.] (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III- 5/05/2004) |
固着はファルス化がなされないとあるが、ファルス化とはファルスの意味作用化、簡単に言えば言語化である。 |
ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. (ラカン, S18, 09 Juin 1971) |
そもそもファルスの意味作用[die Bedeutung des Phallus] とは、フロイトの象徴的意味作用と等価である。 |
象徴的意味作用[die symbolische Bedeutung](フロイト『制止、症状、不安』第1章、1926年) |
つまりファルスの意味作用とは言語的意味作用である、ーー《象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
もうひとつ、ミレール曰くの《いわゆる享楽の残滓 [un reste de jouissance]がある。ラカンはこの残滓を一度だけ言った》とはセミネール10にてのラカンである。
まずモノは対象aであることに注意しなければならない。
セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる[dans le Séminaire suivant (le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a.] ( J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 06/04/2011) |
この前提で以下のセミネールⅩにてのラカンの一連の発言を読んでみよう。 |
残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu. Ce reste, …c'est le petit(a). ](Lacan, S10, 21 Novembre 1962) |
フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
享楽は、残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).] (Lacan, S10, 15 Mai 1963 ) |
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
以上により「モノ=残滓=対象a=異者=享楽=母=固着」となる。 ◼️母は超自我 |
さらにラカンはセミネールⅩⅢにて、この対象aを現実界の穴、超自我というようになる。 |
私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
穴としての対象aは現実界のトラウマの穴のことである。 |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
ここでフロイトに戻って確認しよう。 |
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フロイトにおいて母は超自我である。 |
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心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年) |
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幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]とあるが、これは幼児の身体の世話役としての《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。 これについてはラカンは既にセミネールⅤの時点で明示している。 |
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母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要) |
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さらに超自我は欲動の固着に関わる。 |
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超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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こうして前回示したリストに母と超自我を付け加えることができる。
以上、現実界は母なるモノとは、「現実界は母なる対象の喪失」を意味し、原点にあるのは母胎の喪失、あるいは喪われた母胎への固着[Fixierung an die Mutterleib verloren]である。
プルーストを文字って言えば「失われた母胎を求めて」、ーーこれがエスの欲動、その身体的要求の普遍的性質である。
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◼️エスの意志 |
以上はあくまでエスの意志の話である。自我は基本的には別のことを志向しているが、ときにエスの意志に従う。 |
自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較されうる[Es gleicht so im Verhältnis zum Es dem Reiter, der die überlegene Kraft des Pferdes zügeln soll,]。 騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志[Willen des Es]を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
エスの力は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。Die Macht des Es drückt die eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesens aus. Sie besteht darin, seine mitgebrachten Bedürfnisse zu befriedigen. Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
フロイト観点において重要なのは、自我は自分の家の主人ではなく、エスの組織化された部分に過ぎないことである。 |
自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年) |
自我はエスの組織化された部分である[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年) |
前回示したように、フロイトにとって《原初はすべてがエス[Ursprünglich war ja alles Es ]》(フロイト『精神分析概説』第4章、1939年)である。ヒトの発達に伴ってエスは自我に移行する、あるいは組織化される。だが組織化されない残滓が、モノであり、異者(異者としての身体)であり、固着である。
そして残滓としての「モノ=異者としての身体=固着」は、根源的には喪われた母胎に関わる。これがジャック=アラン・ミレールが次のように言っている内実である。 |
ラカンは反復と喪われた対象との結びつきを常に強調した。…ラカンは根源的に喪われた対象をふたたび見出すための努力として反復を位置づけるのを止めなかった。 Lacan n'a jamais manqué de souligner le lien de la répétition à l'objet comme objet perdu (…) Il n'a pas cessé de situer la répétition comme un effort pour retrouver l'objet foncièrement perdu. (J.-A. Miller, « Transfert, répétition et réel sexuel.» 2010) |
くどくなるがもう一つ挙げておこう。 |
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不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
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この享楽なる不快は不安のことである。 |
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不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
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この不快なる不安は次のような内実を持っている。
そしてフロイトにおいての究極の不安は出生に伴う原不安でありトラウマである。 |
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不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, (…) daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
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不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
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そしてこの原不安、原トラウマは回帰する。 |
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結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
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結局、フロイトにとって現物の母は母胎の代理人なのである。 |
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心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. ] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
◼️魔女のメタサイコロジイ
このエスの欲動を宥めるための分析治療として、フロイトが最後に言ったことは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな」である。 |
欲動要求の永続的解決 [dauernde Erledigung eines Triebanspruchs]とは、欲動の飼い馴らし [die »Bändigung«des Triebes]とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。 しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな [So muß denn doch die Hexe dran]」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイ[Die Hexe Metapsychologie]である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年) |
ラカンはどうなのか。妄想とか新しい倒錯とか脚立が必要だとか言ったが、これらもやはり魔女のメタサイコロジーの一環である。
さらにフロイトはエスに置き残されたリビドー固着の残滓[Reste der Libidofixierungen]を原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit]とも呼んだ。要するに手に負えないエスの怪物だということである。