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2022年12月13日火曜日

Sujetの三区分「主語、主観、主体」、あるいは「シニフィアン、自我、穴」

 

柄谷行人は西田幾多郎に依拠しつつ、主語、主観、主体を区別している。


たとえば、一人称が聞き手との関係によって違っているような日本語では、一人称と「主体」が混同されることはけっしてなかった。しかし、日本語に「主語がない」ことは、日本語で語る人間に「主体」が無いことをすこしも意味しない。逆にいって、そうした文法的条件は、近代的な主観を乗り越えることをも意味しない。今日、日本語では、文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体と区別されている。そうしたのは、西田幾多郎であった。この区別は、日本語の性質から直ちに来るものではない。そこに、こうした語が混同されている西洋哲学への「批判」がある。(柄谷行人「非デカルト的コギト」1992年『ヒューモアとしての唯物論』所収)




この1992年に上梓された文の3年前の『探求Ⅱ」には次のようにもある。


subjectivitat という語は、日本では主観性や主体性と訳しわけられている。それはsubjectivitat という語の“用法”に大きな変化があったからだ。日本語での訳しわけは、それを反映している。主観性は、最初新カント派の認識論のタームとして訳されたものであり、現在でもそれは認識論に関連している。一方、主体性は、西田哲学の系統で用いられるようになった訳語で、現在でもそれは存在論的ないしは倫理的・実践的な意味で用いられている。日常的に使われるとき、これらの語が同一の起源に発することを知っている人さえ少ないほどに、はっきり区別されている。実際、”主観的”は否定的な意味で、”主体的”は肯定的な意味で使われるからだ。


このようなsubjectの両義性は、デカルトの「われ思う故にわれ在り」から生じたのである。ここで、「われ思う」に重点をおけば、”主観性”となり、「わら在り」に重点をおけば”主体性”となるだろう。たとえば、フッサールの超越論的現象学からハイデガーの存在論への移行は、いわば”主観性”から” 主体性”への移行である。ハイデガーは、フッサールにあった認識論的姿勢を批判して、”主体性”を存在論的にいいなおしたのである。


しかし、デカルトのコギトはそのいずれをも両義的にはらんでいる。いわゆる近代的認識論も、実存主義もデカルトのコギトとは無縁だ。逆にいえば、認識論の問題も実存主義の問題も、デカルトのなかであらためて考察されなければならない。たとえば、コギトを外部的実存と呼ぶとき、私はいわゆる実存主義を意味しているのではない。いわゆる実存主義は、ハイデガーの場合のように共同存在(共同体)に帰着するほかはない。なぜなら、実存主義における実存は、共同体(システム)的なものに対する外部性が欠けているからだ。いいかえれば、そこには認識論的な側面が抜けている。逆に、認識論的な側面において語る者たちには、システムに対する外部性が実存的問題であることが抜けおちている。(柄谷行人 「探求Ⅱ」1989年)


デカルトのコギトの外部性が記述されているが、これも基本的には先の《今日、日本語では、文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体と区別されている》としてよいだろう。もっとも私には理論理性の主体が主観というのはいくらか違和感がある。


柄谷は次のようにも言っている。


誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


私はむしろ主観とは自己(自我)としたい誘惑に駆られる。


…………



ところで、ラカンのリアルな主体は穴である。

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet. ](Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


ここでの主体は厳密には斜線を引かれた主体である。

穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ $

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)


※ラカンのリアルな主体はフロイトの自我分裂[Ichspaltung]に起源がある[参照]。


穴とはラカンにおいて享楽(フロイトの欲動)である。

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


穴としての享楽は斜線を引かれた享楽と示され、つまりは$≡Ⱥ≡(- J) である。

私は斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする[(- J) $

le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $  (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 04/06/2008)




この穴Ⱥはトラウマを意味する。

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel … fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


つまりは現実界の主体はトラウマの主体である。

ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び[le jeu de mots de Lacan sur le troumatisme]。トラウマの穴はそこにある。そしてこの穴の唯一の定義は、主体をその場に置くことである[Le trou du traumatisme est là, et ce trou est la seule définition qu'on puisse donner du sujet à cette place (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006)

人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.]J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010




もっともラカンの主体は穴の主体(享楽の主体)以外にシニフィアンの主体がある。

主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)


ラカンはこのシニフィアンの主体を《シニフィアン私[le signifiant « je » ]》(Lacan, S14, 24  Mai  1967)とも言ったが、事実上、主語のことである。


現実界における穴の主体(空虚の主体)の上に象徴界のシニフィアンの主体が現れるというのがラカン派の思考である。

ラカンは、主体の不在[l'absence du sujet]の場処を示すために隠喩を使い、詩的に表現した、《欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 [rond brûlé dans la brousse des pulsions]》(E666, 1960)と。欲動の薮、すなわち享楽の藪[la brousse de la jouissance]である。享楽のなかの場は空虚化されている[où dans la jouissance une place est vidée]。この享楽の藪のなかの場に、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]が刻印されうる  (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 04/06/2008)


なお、この現実界の空虚としての主体は空集合としても示される。

空虚としての主体の場自体が、主体を空集合と等置する[$ ≡ Ø]

La place même du sujet comme vide, qui fait équivaloir le sujet à l'ensemble vide :$ ≡ Ø (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 28 JANVIER 1987)


そして空集合とは女なるものである。

女なるものは空集合である[La femme c'est un ensemble vide ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975)


ーーラカン派においてリアルな「主体性は女性性」とされる主な理由はここにある。


さてここまで現実界の主体と象徴界の主体はそれぞれ穴の主体、シニフィアンの主体であることを示してきたが、想像界には自我がある。


想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)

自我は想像界の効果である[Le moi, c'est un effet imaginaire](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)


以上、これらの用語群を冒頭に示した柄谷の「主語、主観、主体」の区別を援用してーーその内実のいくらかの齟齬はここでは目をつぶり区分だけを活用して、と言ってもよいーーボロメオの環においてみよう。




リアルな穴の主体つまりトラウマの主体とはマゾヒズムの主体をも意味する。



享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


幼児はみな、原支配者の母なる女に享楽なるトラウマ、あるいはマゾヒズムを与えられる。

(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


フロイトにおいてマゾヒズムとは何よりもまず受動性=女性性である。

マゾヒズム的とはその根において、女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)


すべての幼児は母に対して受動的立場に置かれる。

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)


この意味で幼児はみなーー男も女もーー最初は女性的性質を抱える。


フロイトにとって何よりもまずこのマゾヒズム的受動性がトラウマである。


母は幼児にとって過酷なトラウマの意味を持ちうる[die Mutter … für das Kind möglicherweise die Bedeutung von schweren Traumen haben](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)

トラウマを受動的に体験した自我[Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)



フロイトの悪評高い「女性性/男性性(受動性/能動性)」の区別は何よりもまずこの文脈で捉えねばならない。人はみな女性性から出発している、母なる原支配者に対して受動的立場に置かれることから出発しているのである。


男性的と女性的は、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている[Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne.]。〔・・・〕


だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性[reine Männlichkeit oder Weiblichkeit]は見出されない。個々の人間はすべて、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆[Vermengung] をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との融合[Vereinigung von Aktivität und Passivität」をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』第3章、1905年)



例えばイリガライ。彼女は1960年代、ラカンのセミネールに出席して学んだにも拘らず、フロイトラカンにおける女性性と男性性の内実をまったく誤解して、1974年に「Speculum: La fonction de la femme dans le discours philosophique」なる博士論文を上梓し強い批判を受けた。そしてラカンコミュニティから追放された。事実上の破門である。


当時は学園紛争直後であり、フロイトラカンの権威に反抗する闘士として、破門されることによってむしろ名声を博したイリガライだが、彼女のこの書の記述はーー私はチラ見しただけだがーー学問的にはいくらなんでも酷すぎる。特に「主体」についての見当違いが甚だしい。シニフィアンの主体と穴の主体の区別がまったく出来ていない(当時のことゆえある程度は情状酌量するとしても)。


問題は、この現在に至るまでフェミニストたちの女性研究はイリガライ、そして彼女の誤読に大きく影響を受けたバトラーらの浅はかさかからほとんど抜け出せていないように見えることである。これは現在のフェミニズム研究の致命的欠陥以外の何ものでもない。


※参照➡︎泥まんじゅう作りから逃れるために



※付記


なおフロイトにおいてトラウマは身体の出来事かつ固着を意味する。

病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]


この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



ラカンの享楽はこの身体の出来事である。

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)


原初にある身体の出来事はほとんど常に身体の世話役である母に関わる。トラウマへの固着の別名は母への固着であり、これがマゾヒズムである。



マゾヒズムの病理的ヴァージョンは、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着である[le masochisme, …une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, ](Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)


人はみなマゾヒズム的受動性=女性性という不変の個性刻印が刻まれている。男も女も同様である。繰り返せば、リアルな主体は女性性であり、シニフィアンの主体はこの女性性に対する防衛の主体である。別名、見せかけの主体。ーー《見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ]》(Lacan, S18, 13 Janvier 1971)