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2023年1月16日月曜日

涙とため息の文化

 以下、加藤周一の日本文化論のいくつかである。少し前掲げた中井久夫の日本文化論[参照]と同時に読むといっそう含蓄が増す筈である。


◼️不都合な過去は水に流す文化的伝統

日本文化の中では、原則として、過去は殊に不都合な過去は―、「水に流す」ことが出来ると同時に未来を思い患う必要はない。「明日は明日の風が吹く」

地震は起こるだろうし、バブル経済ははじけるだろう。明日がどうなろうと、建物の安全基準をごまかして今カネをもうけ、不良債権を積み上げて今商売を盛んにする。もし建物の危険がばれ、不良債権が回収できなくなれば、その時時点で、深く頭を下げ、「世間をお騒がせ」したことを、「誠心誠意」おわびする。要するに未来を考えずに現在の利益をめざして動き、失敗すれば水に流すか、少なくとも流そうと努力する。その努力の内容は、「誠心誠意」すなわち「心の問題」であり、行為が社会にどういう結果を及ぼしたか(結果責任)よりも、当事者がどういう意図をもって行動したか(意図の善悪)が話の中心になるだろう。文化的伝統は決して亡びていない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)




◼️集団的遡行性記憶喪失症(日本の涙とため息)

日本には一種の集団的遡行性記憶喪失症とでもいう他ない現象がある。〔・・・〕


敗戦の『ショック』があった。そこで『一億総ざんげ』ということがいわれたが、これは戦争の記憶のなかでもいちばん大事な戦争責任者の名前を忘れるということであった。つまり遡行性記憶喪失症の最初のあらわれである。日本のように高度に組織された中央集権的国家に特定の戦争責任者がなかったなどということは御伽噺にすぎない。戦争責任者はいなかったから『一億』ということばが出てきたのではなく、忘れられたから一億の責任ということになったのである。なにも戦争責任者にかぎらない、たとえば勅語のおかげで戦争が終わったときには、勅語のおかげで戦争のはじまったことは忘れているから、陛下のありがたさが身に沁みるのだ。アメリカ人が日本の主人公になったときには、『鬼畜米英』は『撃ちてしやまん』は忘れているから、風俗的、学問的にアメリカ人を模範とすることが実にたのしく、にぎにぎしい。国の民主化が問題になったときには、自由主義が日本の国体に反していたはずだということは忘れているから、いわゆる『自由』をまもるためには身を投げ打って共産主義征伐にも乗り出しかねない気迫が漲ってくる。-それが敗戦のショックというもので、そのためにおこった記憶喪失症の型は、個人が酔っ払った後で自動車にはねられたときとよく似ているだろう。


涙と溜息の国、日本の日常生活が暗いかというと、それほど暗くはない。結構楽しくやっているという面もある。そのたのしさがその日暮しの先のないものだという感じはあるが、それは何も日本にかぎった話ではない。


弊害…その第一は、文化は、持続的なものであるからやたらにもの忘れをする社会に、ほんとうの文化は育たないということである。その第二は、過去を忘れる社会は、また未来をも忘れるということ、別の言葉でえば、そのために未来を楽天的に受け取ることはできるだろうが、未来について正確なみとおしをもつのぞみはないということである。〔・・・〕


先のことは個人的にもあてにならないが、社会としても全くあてにならないだろう。そういうときに朗らかに暮らすためには、先のことを一切考えないより他に手がないということを、どうしても朗らかに暮らす必要のある人たち、即ち、日本の青年は、いわば本能的に知っているのだ。〔・・・〕


未来については、たとえばどれほど不安な未来であろうと、みとおしがなければならない。しかし未来の見とおしは、忘れられた過去の分析からひきだされないとしたら、一体どこからひきだされるのか。〔・・・〕


本能的には感傷的で、意識的に徹底した現実主義者である、一種の型の専門家ができあがるわけだ。〔・・・〕


涙と溜息に養われた魂は、理想主義と無慈悲な権力政治との現実をならべて、しかも自分の考えを貫くことができず、感傷的でない理想主義を想像することもできない。〔・・・〕

しかし、感傷的でない理想主義というものは、現実にあり、しかもそれが先の見通しを可能にするものなのだ。先の見とおしをもつということは、すでにあった事実のなかからある一つの方向をもった流れをみつけだすということである。その操作は事実についての情報を集めることだけでは完結しない、事実の集積に対する精神の側からの積極的な働きかけを必要とする。その精神の側からの現実に対する積極的なはたらきかけこそは、感傷主義とはなんの関係もない本来の意味での理想主義であろう。理想主義がなければ現実主義もない。理想主義なしにあり得るのは、せいぜ大きな見とおしのない小手先のかけ引きにすぎない。(加藤周一「日本の涙とため息」1956年)




◼️ムラ社会・自己中心主義・細部尊重主義

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕


社会的環境の典型は、 水田稲作のムラである。 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。 この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、 それでも意見の統一が得られなければ、 「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。


これをムラの成員個人の例からみれば、大枠は動かない所与である。個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。誰もが自家の畑を耕す。 その自己中心主義は、ムラ人相互の取り引きでは、等価交換の原則によって統御される。 ムラの外部の人間に対しては、その場の力関係以外に規則がなく、自己中心主義は露骨にあらわれる。 このような社会的空間の全体よりもその細部に向う関心がながい間に内面化すれば、習いは性となり、細部尊重主義は文化のあらゆる領域において展開されるだろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)





◼️此岸的=日常的現実的、世俗性・非超越性

このような集団に強く組みこまれた個人にとって、世界とは集団そのものです。集団、または社会、または今此処の世の中、つまり此岸ということになるでしょう。 死ぬと、日本人は、此岸から彼岸へ移るのかどうか。 必ずしもそうではなくて、彼岸さえも、実は此岸の、具体的には所属集団の、延長と考えられている場合が多い。日本の文化が定義する世界観は、基本的には常に此岸的=日常的現実的であったし、また今もそうである、といってよいと思います。小さな村の中に家族が住んでいて、その家族の中で、誰かが死ぬと、死者の魂はどこへ行くか。しばらくの間、どことも定めず、空中に漂っている、という説もあります。 たとえば多くの儒者は、それに近いことを考えていたのでしょう。しかし柳田国男によれば、典型的には、村の近くの山の上に行き、そこから村を見まもっている。村はたいてい、水のある所ですから、山の裾、谷間など、下の方にあって、山の上からよくみえます。その山の上に魂が、永久に居るわけじゃないけれど、しばらく居る。そして特定の機会に村へ帰って来ます。いろんな風俗や習慣があるようですが、とにかく適当な機会に帰って来る。誰でもよく知っている機会は、夏のお盆です。帰って来るところは、隣村などということは絶対にない、必ず自分の村、しかも自分の家族のところです。つまり生きていた時の集団への所属性は、死んでも変わらない。日本人の集団属性は死よりも強し。そういうことです。あるいは、死後の世界が集団の延長だといってもよい。窮極的には、此岸から断絶し、独立した彼岸は、ない。本来の現実は、村そのものしかないわけです。家族、村、此岸、それが唯一の窮極的な現実です。


そういう世界観の此岸性は、どういうことを意味するでしょうか。仏教が入って来たときには、その大衆への浸透を妨げにもかかわらず、仏教が大衆のなかへ入ってゆけば、仏教そのものが、現世利益・此岸的効用の方へ、変ってゆく。仏教からその彼岸を奪う変化を「世俗化」とよぶとすれば、徳川時代に仏教の世俗化が徹底します。徳川幕府は仏教寺院を行政制度化して、誰も仏教徒でなければいけないということにした。仏教が政治権力と結び付いた時代は同時に、思想的には仏教の世俗化が徹底した時代だと思います。この時代の政治倫理的な価値体系、あるいは文学的・芸術的な表現は、早くも一七世紀から世俗的なものでした。儒教倫理は此岸的です。文学作品や絵画に、仏教的・宗教的「モチィーフ」は、はなはだ少ない。その頃、アジアの大部分の地域の文化はーー中国の場合にはちょっと難しい問題があるけれども――仏教的です。ヨーロッパでは、教会が魔女狩りをやっていました。日本ではそれが起こる程の排他的で、教条的な宗教体系は、もはや生きていかった。文化自体が世俗化していた、ということになるでしょう。〔・・・〕


個人が集団へ高度に組みこまれている条件のもとでは、個人がその所属集団、具体的には家や村や藩や国家に超越的な権威または価値へ「コミット」することは、困難なはずです。あるいは逆に、そういう絶対的な価値がないから、個人が集団の利益に対して自己を主張することができない、つまり高度の組みこまれが維持される、ということもできるでしょう。これは鶏と卵の関係です。どちらが先であるかは別として、とにかく、日本文化の一つの特徴は、先に触れたように、集団に超越する価値が決して支配的にならないということです。明治以後の支配層は天皇を絶対化しようとしました。しかし天皇はまさに国民という集団の象徴であり、天皇の絶対化は、集団に超越する価値(たとえば儒教の「天」、キリスト教の「神」)の絶対化であるどころか、集団そのものの絶対化に他なりません。(加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」『日本文化のかくれた形』 所収、1984年)





◼️具体的・非体系的・感情的(非抽象的・非体系的・非理性的)

日本文化のなかで文学と造形美術の役割は重要である。各時代の日本人は、抽象的な思弁哲学のなかでよりも主として具体的な文学作品のなかで、その思想を表現してきた。 たとえば『万葉集』は同時代の仏教のどんな理論的著述よりも、奈良時代の人間のものの考え方をはるかに明瞭にあらわしていたといえるだろう。 摂関時代の宮廷文化は、高度に洗練された和歌や物語を生みだしたが、 独創的な哲学の体系をつくり出しはしなかった。 鎌倉仏教は、おそらく徳川時代の儒学の一部分と共に、日本史の例外である。しかし法然や道元の宗教哲学は、その後体系として完成されたのではないし、仁斎や徂徠の古学は、その後の思想家に大きな影響をあたえたけれども、より抽象的であり包括的な思惟を生みだしたのではない。日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあったようである。


他方、日本人の感覚的世界は、抽象的な音楽においてよりも、 主として造形美術、殊に具体的な工芸的作品に表現された。たとえば摂関時代の芸術家は、仏像彫刻と絵巻物に、そのおどろくべき独創性を発揮していた。しかし声明や雅楽に、日本人の独創がどの程度まで加えられていたかは疑わしい。 たしかに室町時代は能の、 徳川時代は浄瑠璃の音楽をつくったが、一度つくり出された音楽的様式のその後の発展は、わずかなものにすぎなかった。 室町時代に水墨画をとり入れ、狩野派を発展させ、一方では南画に到り、 他方では大和絵の系統を融合させながら、琳派の絢爛たる開花に及び、遂に浮世絵木版を生んだ絵画の歴史とはくらべることができないだろう。日本の文化は、ここでも、楽音という人工的な素材の組合せにより構造的な秩序をつくり出すことよりも、日常眼にふれるところの花や松や人物を描き、 工芸的な日用品を美的に洗練することに優れていたのである。

文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文化の全体が、日常生活の現実と密接に係り、遠く地上を離れて形而上学的天空に舞いあがることをきらったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しくちがう。 西洋にはやがて近代の観念論にまで発展したところの抽象的で包括的な哲学があり、またやがて近代の器楽的世界にまで及ぶだろう多声的音楽があった。 中世の文化の中心は、文学でも、 工芸的美術でもなく、 宗教哲学であり、その具体的表現としての大伽藍である。 絵画・彫刻は、その伽藍を飾り、「ミステリー」はその前の広場で演じられ、音楽はその内側に鳴り響いていた。同時代の日本では、仏教の盛時にさえも、 美術が仏教とばかりではなく、世俗的な文学とむすびつき、音楽も宗教的儀式とよりは、劇や世俗的な歌謡の言葉と連なっていた。日本の文学は、少くともある程度まで、西洋の哲学の役割を荷い(思想の主要な表現手段)、同時に、西洋の場合とはくらべものにならないほど大きな影響を美術にあたえ、また西洋中世の神学が芸術をその僕としたように音楽さえもみずからの僕としていたのである。日本では、文学史が、日本の思想と感受性の歴史を、かなりの程度まで、代表する。


もちろん中国では、文学と美術(殊に絵画)との関係が書を介して、しばしば密接不可分であった。音楽もまた文学から独立して西洋でのような器楽的発展を遂げたのではない。そのかぎりでは、日中文化の間に、一方から他方への影響を別にして考えても、少くとも表面上の類似がめだつ。中国はすぐれて文学の国であった。しかし二つの文化が決定的にちがうのは、中国的伝統のなかでは、包括的体系への意志が、宋代の朱子学にも典型的なように、徹底していたということである。朱子学的綜合は、日本では到底成立するはずがなかった。 ということは、また、徳川時代のはじめに幕府の公式の教学として採用された宋学が、一世紀足らずの間に日本化されたことからも知られる。 日本化の内容は、まさに包括的体系の分解であり、形而上学的世界観の実践倫理と政治学への還元ということであった。


中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に到り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、 部分から始めて全体に到ろうとする。 文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化に重きをなす所以と同じではない。 比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。


日本で書かれた文学の歴史は、少くとも八世紀までさかのぼる。 もっと古い文学は、世界にいくらでもあったが、これほど長い歴史に断絶がなく、同じ言語による文学が持続的に発展して今日に及んだ例は、少い。 サンスクリットの文学は、今日まで生きのびなかった。 今日盛んに行われる西洋語の文学(伊・英・仏・独語文学)は、その起源を文芸復興期(一四、五世紀)前後にさかのぼるにすぎない。ただ中国の古典語による詩文だけが、日本文学よりも長い持続的発展を経験したのである。


しかも日本文学の歴史は、長かったばかりではない。その発展の型に著しい特徴があった。一時代に有力となった文学的表現形式は、次の時代にうけつがれ、新しい形式により置換えられるということがなかった。 新旧が交替するのではなく、新が旧につけ加えられる。 たとえば抒情詩の主要な形式は、すでに八世紀に三一音綴の短歌であった。 一七世紀以後もう一つの有力形式として俳句がつけ加えられ、二〇世紀になってからはしばしば長い自由詩型が用いられるようになったが、短歌は今日なお日本の抒情詩の主要な形式の一つであることをやめない。もちろん一度行われた形式が、その後ほとんど忘れられた場合もある。奈良時代以前から平安時代にかけて行われた旋頭歌は、その例である。 しかし奈良時代においてさえも、 旋頭歌は代表的な形式ではなかった。 徳川時代の知識人たちがしきりに用いた漢詩の諸形式は、今日ほとんど行われていない。しかしそれは外国語による詩作という全く特殊な事情による。新旧の交替よりも旧に新を加えるという発展の型が原則であって、抒情詩の形式ばかりでなく、 またたとえば、室町以後の劇の形式にも、実に鮮やかにあらわれていた。 一五世紀以来の能・狂言に一七世紀以来の人形浄瑠璃・歌舞伎が加わり、さらに二〇世紀の大衆演劇や新劇が加わったのである。そのどれ一つとして、後から来た形式のなかに吸収されて消え去ったものはない。


同じ発展の型は、形式についてばかりでなく、少くともある程度まで、各時代の文化が創りだし、その時代を特徴づけるような一連の美的価値についてもいえるだろう。たとえば摂関時代の「もののあはれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」または「さび」、徳川時代の「粋」、このような美の理想は、そのまま時代と共にほろび去ったのではなく、次の時代にうけつがれて、新しい理想と共存した。明治以後最近まで、歌人は「あはれ」を、能役者は「幽玄」を、茶人は「さび」を、芸者は「粋」を貴んできたのである。


このような歴史的発展の型は、当然次のことを意味するだろう。古いものが失われないのであるから、日本文学の全体に統一性(歴史的一貫性)が著しい。と同時に、新しいものが付加されてゆくから、時代が下れば下るほど、表現形式の、あるいは美的価値の多様性がめだつ。抒情詩・叙事詩・劇・物語・随筆・評論・エッセーのあらゆる形式において生産的であり得た文学は、若干の欧州語の文学を除けば、 他に例が少いし、文学・美術にあらわれた価値の多様性という点でも、今日欧米以外には、おそらく日本の場合に比較する例がないだろう。清朝末期までの中国文学と同じように、伝統的な形式が何世紀にもわたって保存された事情は、日本の場合には、中国の場合とは逆に、むしろ新形式の導入を容易にしたようにみえる。 中国の場合のように、旧を新に換えようとするときには、歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされる。旧体系と新体系とは、激しく対決して、一方が敗れなければならない。しかし旧に新を加えるときには、そういう問題がおこらない。今日なお日本社会に著しい極端な保守性(天皇制、神道の儀式、 美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の濫造など)とは、おそらく楯の両面であって、同じ日本文化の発展の型を反映しているのである。

(加藤周一『日本文学史序説 上』1975年)



加藤周一の日本文化論は膨大でありーー彼の全仕事自体が日本文化論に捧げられていると言っても過言ではないーー、上に掲げたものはそのほんの一部である。


ここでは最後にもうひとつ、日本語文法にかかわる記述を掲げる。



日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度ということになろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)



おそらく日本語を、とくに話言葉の日本語を使用すること自体が、上に列挙した日本文化の特徴に染まってしまう原因とさえ言いうる。


「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年)

いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)



あるいはーー、


一人称の問題があると。それは当然二人称、三人称との関連になります。そうすると、歴史の問題じゃないかと思うわけね。その言語圏がどういう闘争を経てきたかという、それによるんじゃないかしら。

日本の中世近世からずっと見ると、それほど強い内部的な抗争は経てないというふうに思える。とにかく自他の区別をはっきりしないと、どうつけこまれるかわかりゃしないっていうような、そういうことが少なかったんでしょうね。その中で文章が丸く完成していって、近代に入ってからも、どっちかっていうと集団でふるまうでしょ。だからひょっとして「私」っていう立場が歴史的に薄いんじゃないか。〔・・・〕

これからどうするんだろうね。僕なんかもう残りの年が少ないから、もういいやと思っているけど、若い人はどうするんだろう。主語をはっきりさせて日本語が成り立つかどうかの問題があるんですよね。


社会生活の中で「私」っていうのは、自分は何者かということでしょ? 個人のことでもなくてね、その親の代から祖父の代から何者であるかっていうことのはずなんですよ。

で、文学はそれだけだったら駄目なはずですよね。そこで「私」に関するフィクションが出てくるんだと思うんです。ただ、フィクションと現実との間にどういう緊張があるかということではありませんか。「私」とは険しいものでね。(古井由吉「文芸思潮」2010初夏)




この古井由吉の話は「日本語は敬語」だという形で語られてきた。

実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕

何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年)

日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)



日本語を使いつつ「日本の涙とため息」の文化からどうやったら逃れられるのか。過去には「他人に背中を向けた文体」で書こうとする試みもなされてきた(例えば作家なら永井荷風、批評家なら蓮實重彦)。だがこの今のSNS全盛時代にはそれらの試みをする書き手も絶滅に近づいている。21世紀になって20年を経て「涙とため息の文化」が以前にも増して花盛りとさえ言いうるのではないか。