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2023年1月18日水曜日

無責任の体系・無イデオロギーの国・たこつぼ型集団(丸山真男)


以下、中井久夫と加藤周一に引き続き[参照]、丸山真男の日本文化論のいくつかである。前二者の日本文化批判(あるいは吟味)の核は、結局、丸山真男にあるように思う。


◼️政治的なものーーすべての人間的営為の政治的性格と全体主義化の危険

政治的なるものの位置づけ。  政治は経済、学問、芸術のような固有の「事柄」をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は「政界」における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断するにとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である。(丸山真男「対話」1961 年)




◼️日本のたこつぼ型集団

自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。


ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。


自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。

人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」1966年)





◼️無責任の体系・お祭りの神輿・被害者意識

一番重大な戦争責任が帰属される筈の日本の支配層が実は一番責任を感ぜず、罪の意識が殆ど欠けている、という問題-これがどういうところから生じて来たかということを考えてみたいと思います。

責任の意識がなく、かえって支配層を構成していた人々が被害者意識しか持っていないということは、つまり支配層にリーダーシップの自覚がなかったということと関係があります。じゃ何故日本の支配層に政治的リーダーシップの自覚が少なかったか、という問題になります。


…戦争に突入した頃の日本の天皇制自身がいわば一個の厖大な「無責任の体系」だと思うのです。‥第一に、天皇自身がヤーヌス(双頭の怪物)的な性格を持っていた。いうまでもなく、立憲君主としての面と絶対君主としての面です。…日本の戦前の政治構造は本来、終戦の時の天皇の「聖断」にあらわれたように、天皇自身が最後的に国家意思を綜合し決定するようにできている。‥にも拘らず、大正天皇の精神薄弱とか、天皇に政治責任がかからぬようにというような元老の配慮といった色々な歴史的事情で、現在の天皇は事実立憲君主としての教育を受けて来たし、しかも護憲三派内閣から犬養内閣までは完全な形からは遠いけれども一応政党内閣が続いて、いわゆる「憲政の常道」が成立した。こうした習慣が政党政治の崩壊以後もダラダラと続いて、実際は天皇自身が政治的な発言もし、決定もする建て前になっているのに、実質的な大権行使をひかえた。こういうところから主権の総攬者としての天皇というものの責任が非常に曖昧になった点が第一です。


第二には、‥第一のことと関連して日本の統治構造自身が非常に多元的であり、そのことからまた責任意識が雲散霧消してしまう。国務大臣は行政大臣を兼ね、しかも単独輔弼制をとっているので行政のセクショナリズムがそのまま内閣に反映する。しかも統帥と国務は全く切り離されて、天皇のところではじめて統合されるようにできている。その上、内府・枢密院・元老・重臣会議といった権限範囲の曖昧なシュウト・小ジュウトが内閣に重大な政治的圧力をかけ、また議会の権限の失墜に比例して、国民の中の右翼や浪人のような全く無責任な勢力が正式なルートを通じないで、政策決定に舞台裏から働きかける。‥ちょうど戦中戦後の統制経済と同じように、政治意思の伝達過程が殆ど正規のルートでなく闇ルートで行われた。しかも大事なことは、これが決して突然変異の現象でなく、むしろ明治以来の日本の政治構造自体にそういう闇ルートによる政策決定を可能にする基盤があったということです。三〇年代以後顕著になった政治的病理現象で、明治以来の政治史に現われなかったものは殆どない。ただ色々の歴史的事情で散発的にしか現われず、したがって何とか弥縫されていたのが昭和の危機に一度に顕在化したまでです。そういう統治構造の多元性を一番端的に示すのが日本の政局の非常な不安定性でありまして、これは他のいかなる全体主義国家にもみられない特色であります。…


これについて私は以前‥ある旧高官から非常に面白い比喩をきかされたことがあります。それは今度の戦争というのは‥お祭りの御輿の事故みたいなものだということです。始めはあるグループの人が御輿をワッショイワッショイといって担いで行ったが、ある所まで行くと疲れて御輿をおろしてしまった。ところが途中で放り出してもおけないので、また新たに御輿を担ぐものが出て来た。ところがこれ又、次のところまで来て疲れて下ろした。こういう風に次から次と担ぎ手が変り、とうとう最後に谷底に落ちてしまった、というのです。…結局始めから終りまで一貫して俺がやったという者がどこにも出て来ないことになる。つまり日本のファシズムにはナチのようにそれを担う明確な政治的主体-ファシズム政党-というものがなかった。しかもやったことは国内的にも国際的にもまさにファッショであった。主体が曖昧で行動だけが残っているという奇妙な事態、これが支配層の責任意識の欠如として現われている。


この日本の特殊な政治構造に見合った心理として二つのものが考えられる。一つは臣下意識である。総べての人が天皇の忠誠な臣下であるという意識。従ってどんなに実質的に国家権力を左右した人間も自分は天皇の忠実な臣下として行動したに過ぎないという意識がいつも底にあり、それだけ政治的指導の責任意識はうすれるわけです。

もう一つは「権限」の意識です。ナチのようなファシスト政党がなくて、然も議会政治というものは実質的に無力になると政治家の責任はますます官僚としての事務責任にとって代られる。官僚としての責任は、自分の権限については責任があるが、権限外には責任がないということです。つまり軍部も含めて官僚は国家機構の中で精密な分業によって与えられた職務を行う建て前になっていますから、全体的な見透しを立てたり、政策を決定する責任は自分にはないと思っています。官僚が実質的に政治家として行動しながら、意識としてはどこまでも官僚だということ、それが前に述べました政治的多元性とあいまって、いよいよ一元的な責任の所在を曖昧にしたと思います。


最後に、日本のブルジョアジーの伝統的な寄生意識が問題になります。明治以来非常に国家権力に依存してその庇護の下に成長した日本のブルジョアジーは、伝統的に寄生的な、明治の言葉でいえば、「紳商」的性格を持っています。従ってブルジョアジーは国家権力を主体的に動かす自信というかプライドをもたず、せいぜい受益者または被害者の意識しかない。…


然し‥二・二六以後から、日華事変頃を契機として非常に事態が違って来ております。軍部自身が二・二六事件を経て軍自身の内部のラディカリズムを粛清し、むしろそれを脅しに使いながら、全体として日本を戦争体制に持ってゆくことに主力を注ぐようになりますし、他方、日本経済全体の戦時体制化が進むに従って、戦争経済を拡大再生産する以外に利潤追求ができなくなりますから、財閥乃至独占資本はますます軍部と運命共同体になって行きます。つまり軍部の表見的ラディカリズムの解消とブルジョアジーの戦争へのコミットによって、両者の利害は事態の進展とともに密接に結びついて来たわけです。


‥要するに、‥ファシズムと戦争を客観的に推進した諸力と、彼らの主観的な意図なり意識なりのギャップが、日本の場合非常に大きいこと、しかもそのこと自身、単に人柄とかモラルの問題でなく、そういうギャップがでて来る機構的な必然性があったということ、これを社会科学的に、また歴史的に解明することが非常に大事だということです。…実は支配層がそれぞれ困った困ったといいながら、全体としては戦争へひきずりこんで行ったそのメカニズムを明らかにすることが私達の任務だと思います。(丸山真男「戦争責任について」1956.11)





◼️無イデオロギー・無思想の国

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。


イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。


人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。


しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山真男『丸山座談5』針生一郎との対談)1965年)




…………………



※付記:概念論(言語論)


◼️概念のめがね

めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。〔・・・〕

われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。(丸山真男集⑨「幕末における視座の変革」1965.5)




◼️文法のめがね・言葉のめがね

ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。(ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年)

サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis:人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951)




◼️日本語文法の特徴

日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度ということになろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)

「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年)

いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)