「ぼくには彼がたしかに気づきはじめていたと思われる戦争の一面があるのですがね」と私は彼女にいった、「それは、戦争が人間のようだということで、戦争は恋愛のようにも見られたし、 にくしみのようにも見られたが、 これからは小説のようにも物語ることができるだろう、したがって、人によっては戦術は科学であるとくりかえす向きも多いようだが、それは戦争を理解するなんのたすけにもならない、なにしろ戦争は作戦通りではないのだから、というのです。敵にわれわれ味方の計画がわからないのは、愛している女の追い求める目的がわれわれにわからないのとおなじです[Il y a un côté de la guerre qu'il commençait à apercevoir, dis-je, c'est qu'elle est humaine, se vit comme un amour ou comme une haine, pourrait être racontée comme un roman, et que par conséquent, si tel ou tel va répétant que la stratégie est une science, cela ne l'aide en rien à comprendre la guerre, parce que la guerre n'est pas stratégique. L'ennemi ne connaît pas plus nos plans que nous ne savons le but poursuivi par la femme que nous aimons, et ces plans peut-être ne les savons-nous pas nous-mêmes]。もしかすると味方の計画は、われわれ自身にもわからないかもしれません。 ドイツ軍は、一九一八年三月の攻撃で、アミアンを陥落することを目的としていたのでしょうか? その点は何一つわれわれにわかっていません。おそらく、ドイツ軍自身にもわかっていなかったでしょう。彼らがアミアン方面に向かって西に前進したという事態の起きたことが彼らの計画を決定したのでしょう。かりに戦争は科学的であるとしても、やはり戦争を描くには、エルスチールが海を描いていたやりかたのように、べつの方向から描かねばならないでしょうし、ドストエフスキーがある人の生涯を物語るように、さまざまな錯覚から、そしてすこしずつ修正されてゆく確信から、出発しなくてはならないでしょう。それにしても、戦争がすこしも作戦通りでないことはあまりにも確実です、これはむしろ医学的であり、たとえばロシア革命のような、臨床医なら回避することを望みそうな、思いもかけない偶発事をふくむものなのです。」(プルースト「見出された時」p 515~)
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