このブログを検索

2023年2月8日水曜日

『喪とメランコリー』における超自我

 

この片岡一竹氏の論文はいいね、『喪とメランコリー』から説き起こして、後年のフロイトの記述を多様に示しつつ、超自我概念に正面から立ち向かっている。例えば、次の一節などとてもいい。


ここで重要なのは 、諸々の二次マゾヒズムの代表として 「道徳的マゾヒズム( moralische Masochismus)」が提示されていることである( GW13:378)。外界から回帰した死の欲動は超自我によって受け入れられ、自我に対する超自我のサディズムを増大させるが、他方でそこでは自我の側のマゾヒズムも強化される。 「超自我のサディズムと自我のマゾヒズムは互いを補い合い、合一して、同じ結果を生じさせる」 ( GW13:383)。道徳が死の欲動に関する議論に関わるのは「道徳的マゾヒズム」として、すなわち死の欲動の再内面化によって生じる(二次)マゾヒズムの一種としてである。 

(道徳の起源についてフロイトは何を語ったか ――超自我における欲動、対象、寄る辺なさ―― 早稲田大学 片岡一竹、2021年、PDF)



これは、例えば日本なら、柄谷行人の超自我の把握の仕方の批判にもなる[参照]。

最初のフロイトは、親もしくは社会によって発せられる「上からの」禁止のなかに超自我を探し求めた。しかし第一次世界大戦における戦闘消耗と戦争神経症の事例に遭遇して、フロイトは見解を修正した。フロイトは、外部に向けられた攻撃性が自己に向かって内部に向け直されるものとして、超自我を見るようになった。

The early Freud sought the superego in prohibitions “from above” issued by parent or society, but after he encountered cases of combat fatigue and war neurosis in the First World War, he revised his position. He now saw the superego as externally directed aggressiveness redirected inward toward the self.(柄谷行人『世界史の構造』2010年ーー手元に日本語版がないので英語版から私訳)


何度か指摘してきたが、柄谷の超自我=死の欲動は、実は二次マゾヒズムーーもしお好きなら「二次超自我」と呼んでもよいーーに過ぎないのである。





それはさておき、この片岡一竹の《本論文は、令和二年度科学研究費補助金 ( 特別研究員奨励費、課題番号19J22207)による研究成果の一部である。 》とあり、彼はそろそろ博士論文を提出する頃だろうから、日本言論界ではひどく曖昧なままになっている「超自我」ーーラカン派中堅において最も優秀であるだろう松本卓也くんにおいてさえそうだーーが鮮明化される論文となるんじゃないか。


……………………


なお、『喪とメランコリー』(1917年)には超自我概念はない。だが後年のフロイトの記述、とくに超自我概念をはじめて提出した『自我とエス』(1923年)を読むと、『喪とメランコリー』の末尾近くにある《批判的審級 [kritischen Instanz]》という表現が事実上の超自我であることがわかる。


his second topology (ego, superego, id) originates in his study of melancholy because it is precisely the division between the ego and the superego that plays such an important role in the depression–enthusiasm dichotomy. The term superego had not yet appeared by the time of “Mourning and Melancholia.” There, Freud talks about the “critical instance” in the ego. (Paul Verhaeghe, ON BEING NORMAL AND OTHER DISORDERS、2004)


ーーこれも片岡一竹氏は指摘している。


『自我とエス』から引用しておこう。


まずメランコリーに目をむけると、意識を占有した非常に強い超自我が、自我にむかって無慈悲に激怒し、あたかも、その個人の中のあらんかぎりのサディズムを発揮するかのようにふるまうことが認められる。 サディズムに関するわれわれの見解にしたがえば、破壊的成分が超自我の中に巣喰って、自我に敵対したということができよう。超自我の中で支配しているものは、死の欲動の純粋培養のようなものであって、自我が躁病に転変することによって、あらかじめその暴君をふせがないと、しばしば本当に自我を死に駆り立てることがある。


Wenden wir uns zunächst zur Melancholie, so finden wir, daß das überstarke Über-Ich, welches das Bewußtsein an sich gerissen hat, gegen das Ich mit schonungsloser Heftigkeit wütet, als ob es sich des ganzen im Individuum verfügbaren Sadismus bemächtigt hätte. Nach unserer Auffassung des Sadismus würden wir sagen, die destruktive Komponente habe sich im Über-Ich abgelagert und gegen das Ich gewendet. Was nun im Über-Ich herrscht, ist wie eine Reinkultur des Todestriebes, und wirklich gelingt es diesem oft genug, das Ich in den Tod zu treiben, wenn das Ich sich nicht vorher durch den Umschlag in Manie seines Tyrannen erwehrt. (フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


ここにある死の欲動が、『喪とメランコリー』にある《自殺傾向[Selbstmordneigung]》に相当する。


なお片岡一竹の上の論は固着概念を示していないのがいくぶん惜しまれる、『喪とメランコリー』にある《強い愛の対象への固着[ starke Fixierung an das Liebesobjekt]》、《対象へのリビドー固着[Fixierung der Libido an das Objekt]》とは、事実上、「喪われた愛の対象への固着」であり、ーー《愛の対象の喪失[Verlust des Liebesobjekts]》ともあるゆえーー、ここに現代ラカン派の理論的核のひとつがある。


もっとも彼は「喪失された対象への自我の同一化」とは記している。後期フロイトにおいて、少なくとも前エディプス的同一化は固着である[参照]。その意味でで、言葉上の問題だけだとも言える。