なんだい、そこのお嬢さんは。キミは明晰さが好きなのか、それだけ小説を読んでいながら。
人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。 この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』) |
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いまだ「小説の知恵」を知らないままなんだな、どうもクサイと思ったよ。批評の精神ーーあくまで浅田のたぐいが言う「批評」だがーー、明晰さなる貧しい領土に留まりたいわけだな。
浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。 |
大江:浅田さんには「自分は単なる明晰にすぎない」という、つつましい自己規定があるんですね。明晰な判断力ではとらえきれないものがあって、それは明晰さより上のレベルだと思っていられる。天才というようなものが働くレベルというか。文学というあいまいな場所で生きている人間からすると、上等な誤解を受けている気がします・・・・・・(笑い)。 |
浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。(平成2年5月1日朝日新聞夕刊 対談 大江健三郎&浅田彰) |
ま、もちろん日本的環境では明晰さが必要なのかもしれないがね。で、どうだい、最近の批評家は? 明晰さの衣を被って「作品をダシにおのれを語るばかり」のヤツ以外いるのかい? ボク珍の感想書いてるヤツばかりに見えるがね
だいたい読書メーターとか言って、私は今月これを読みましたとか言ってるヤツってとってもクサイんだよ、
(このインターネットの時代)、読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ・・・ 実際、「読書」とはあくまで変化にむけてのあられもない秘儀にほかならず、読みつつある文章の著者の名前や題名を思わず他人の目から隠さずにはいられない淫靡さを示唆することのない読書など、いくら読もうと人は変化したりはしない。(蓮實重彦『随想』2010年) |
わかんねえかな、こういう感覚を養うのが小説を読むってことだと思うがね、オレには。 |
俗物(philistine)は成熟した大人であって、その関心の内容は物質的かつ常識的であり、その精神状態は彼または彼女の仲間や時代のありふれた思想と月並みな理想にかたちづくられている。〔・・・〕「ブルジョア」という言葉を、マルクスではなくフローベールの用例に従って私は用いる。フローベールの意味での「ブルジョア」は一つの精神状態であって、財布の状態ではない。ブルジョアは気取った俗物であり、威厳ある下司である。 順応しよう、帰属しよう、参加しようという衝動にたえず駆り立てられている俗物は、二つの渇望のあいだで引き裂かれている。一つは、みんなのするようにしたい、何百万もの人びとがあの品物を褒め、この品物を使っているから、自分も同じものを褒めたり使ったりしたい、という渇望である。もう一つは排他的な場、何かの組織や、クラブ、ホテルなどの常連、あるいは豪華客船の社交場(白い制服を着た船長や、すばらしい食事)に所属し、一流会社の社長やヨーロッパ の伯爵が隣に座っているのを見て喜びたい、という渇望である。(ナボコフ『ロシア文学講義』) |
性格がヒドク悪い蓮實の言い方だったら、キミらのやってることは《特殊でありたいといういささかも特殊ではない一般的な意志》だよ。
文学がその自意識に目覚め、文学ならざるものとの違いをきわだたせることにその主要な目標を設定していらい、過去一世紀に及ぶ文学の歴史は、同じであることをめぐるごく曖昧な申し合わせの上に、かろうじて自分自身を支えてきたといってよい。最初にあったのは、同じでありたくないという意志であり、その意志の実現として諸々の作品が書かれてきたのだが、より正確にいうなら、こうした文学的な自意識の働きは、それじたいとして故のない妄執をあたりに波及させてきたわけだ。実際、同じではありたくないという意志が等しく共有される場として文学が機能していたという事実は、何とも奇妙な自家撞着だというべきだろう。作家たちは、また読者たちも、自分が他と違ったものでありたいという同じ意志を、何の矛盾もなく文学の価値だと信じていたからである。つまり、近代と呼ばれる時代の文学は、文学が一般化されてはならず、あくまで特殊な振舞いとして実践されねばならないという一般化されて欲望が、みずからの矛盾には気づくまいと躍起になって演じたてられた悲喜劇にすぎず、それこそ文学の自意識なるものの実体にほかならない。 |
特殊でありたいといういささかも特殊ではない一般的な意志、あるいは違ったものでなければならぬという同じ一つの強迫観念が、文学をどれほど凡庸化してきたかは誰もが知っている歴史的な現実である。文学の近代的な自意識なるものによって捏造された個性神話というものが、とどのつまりは文学の非個性化に貢献してしまったという歩みそのものが、そのまま過去百年の文学の不幸な歴史にほかならない。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』1988年) |
要するに、読書メーターやら読書会やらってのは「反小説的行為」だよ、チガウカイ? 明晰さなる貧しい領土に閉じ籠るつもりで実はトッテモ俗物って感じしか受けないがね。
とはいえ若きカフカが、ニーチェをパクって言った「ぼくらの内の氷結した海を砕く斧」のような本を一応は探してるんだろ?
ぼくは、自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか? きみが言うように、ぼくらを幸福にするためか? やれやれ、本なんかなくたってぼくらは同じように幸福でいられるだろうし、ぼくらを幸福にするような本なら、必要とあれば自分で書けるだろう。いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。(カフカ 親友オスカー・ポラックへの手紙 1904年1月27日) |
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どうだい? 要するに失語体験だよ
でも読書会のたぐいは《たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする》振舞いとしか見えないんだな、凡庸な教師がしばしばやってるがね、最近ならプルースト研究者やラカン研究者でさえも。
だが、知っているとはどういうことなのか。ほとんどの場合、知っているとは、みずから説話論的な磁場に身を置き、そこで一つの物語を語ってみせる能力の同義語だと思われている。フローベールとは、十九世紀フランスの小説家で、『感情教育』などの客観的な長篇小説を書いた、というのがそうした物語である。青年時代に神経症の発作に見舞われていらい、世間との交渉を絶ち、ノルマンディーの田舎に閉じこもって、文章の彫琢に没頭した、というのも物語である。また、その他いろいろあるだろう。そんな物語の一つをつぶやくことができるとき、人は、そこで主題になっているものを知っていると思う。知は、物語によって顕在化し、また物語は知によって保証されもするわけだ。なにひとつ物語を語りええないものを前にして、人はそれを知らないという。だから、フローベールが未刊のままの草稿として残した倒錯的な辞典の題名をかかげてみても、知と物語との相互保証を導きだすことにしかならないだろう。ところで、フローベルが十九世紀の半ばに構想を得た辞典は、まさに、こうした知と物語との補完的な関係を断ち切ることにあったのだ。 |
実際、誰もがフローベールを知っている。そして、知っているという事実をたがいに確認しあうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。その物語の中で、最も多くの人に知られているものこそ、フローベールが執筆を企てた辞典の項目たる資格を持つものである。誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが、知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。まるで物語の外には知など存在しないかのように、装置は、知を潤滑油として無限に機能しつづける。するとどういうことになるか。 |
結果は目にみえている。人は、知っていることについてしか語らなくなるだろう。たまたま未知のものが主題となっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようなものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。 |
ところで、この物語の無限反復の中に辞典の題名を導入するとどうなるか。それはギュスターヴ・フローベールの未完の草稿だと口にするだけで、この辞典が説話論的な磁場の中へ姿を消してしまうのは明らかだろう。あとはすべてが円滑に進行する。その倒錯的な辞典の倒錯性そのものに出会うことなく、誰もが物語を納得してしまうのだ。だが、フローベールとしては、みずからを無謀な編纂者に仕立てあげることで、この寛大な納得を、物語の模倣を介して宙に吊ることを目ざしていたわけだ。というよりむしろ、説話論的な磁場の保護から出て、誰もがごく自然に口にする物語を、その説話論的な構造にそって崩壊させるというのが、彼の倒錯的な戦略であったはずだ。物語に反対の物語を対置させることではなく、物語そのものにもっとも近づいて、自分自身を物語になぞらえさえしながら、物語的な欲望を意気阻喪させること。つまり、失望の生産とは、知と物語との補完的な関係をくつがえし、知るとは、そのつど物語を失うことにほかならなぬのだと、実践によって体得すること。事実、具体的に何ものかと遭遇するとき、人は、説話論的な磁場を思わず見失うほかはないだろう。つまり、なにも語れなくなってしまうという状態に置かれたとき、はじめて人は何ごとかを知ることになるのだ。実際、知るとは、説話論的な分節能力を放棄せざるをえない残酷な体験なのであり、寛大な納得の仕草によってまわりの者たちと同調することではない。何ものかを知るとき、人はそのつど物語を喪失する。これは、誰もが体験的に知っている失語体験である。言葉が欠けてしまうのではなく、あたりにいっせいにたち騒ぐ言葉が物語的な秩序におさまりがつかなくなる過剰な失語体験。知るとは、知識という説話論的な磁場にうがたれた欠落を埋めることで、ほどよい均衡におさまる物語によって保証される体験ではない。知るとは、あくまで過剰なものとの唐突な出会いであり、自分自身のうちに生起する統御しがたりもの同士の戯れに、進んで身をゆだねることである。陥没点を充塡して得られる平均値の共有ではなく、ときならぬ隆起を前に、存在そのものが途方に暮れることなのだ。この過剰なるものの理不尽な隆起現象だけが生を豊かなものにし、これを変容せしめる力を持つ。そしてその変容は、物語が消滅した地点にのみ生きられるもののはずである。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年) |
だいたいフェミニズム系ってのは《チャレンジなきグループ思考という居ごこちよい仲良し同士の沼沢地》が好きらしいけどさ。 |
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女性研究は、チャレンジなきグループ思考という居ごこちよい仲良し同士の沼沢地である。それは、稀な例外を除き、まったく学問的でない。アカデミックなフェミニストたちは、男たちだけでなく異をとなえる女たちを黙らせてきた。Women's studies is a comfy, chummy morass of unchallenged groupthink. It is, with rare exception, totally unscholarly. Academic feminists have silenced men and dissenting women. (カミール・パーリアCamille Paglia, Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism, 2018) |
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レッシングはもともと英フェミニズム運動のアイコンだったんだが、ある時期以降のフェミニストたちに呆れ返って寝返ったのさ。根が宗教に染まっていたら、いくら小説書いたり読んだりしたって時間のムダだからな。 なあ、どうだい、キミのやってることは一行一句反小説的振舞いにみえちまうがな。本なんか買う金あったら綺麗なオベべをもっといっぱい買って男をたぶらかしたほうがずっといいぜ。 いい匂いをもった、それなりの美女なんだろうからさ、
最近の化粧品はどうだが知らないが、昔のシャネルは糞尿のにおいをかすかに混ぜたらしいぜ、そのほうが肌との馴染みが深くにおいが長続きするらしいよ。 ……………… |
と記して思い出したが、小林秀雄はこう言ってるな。 |
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人々は批評といふ言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいふことを考へるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいふものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考へる、さういふ風に考へる人々は、批評といふものに就いて何一つ知らない人々である。 この事情を悟るには、現実の愛情の問題、而もその極端な場合を考へてみるのが近道だ。〔・・・〕 恋愛は冷徹なものぢやないだらうが、決して間の抜けたものぢやない。それ処か、人間惚れれば惚れない時より数等利口になるとも言へるのである。惚れた同士の認識といふものには、惚れない同士の認識に比べれば比較にならぬ程、迅速な、溌剌とした、又独創的なものがある筈だらう。〔・・・〕 理知はアルコオルで衰弱するかも知れないが、愛情で眠る事はありはしない、寧ろ普段は眠つてゐる様々な可能性が目醒めると言へるのだ。傍目には愚劣とも映ずる程、愛情を孕んだ理知は、覚め切つて鋭いものである。(小林秀雄「批評について」) |
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女ってのはトクかも知れないよ |
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相手が女だと、憎しみの情に、好奇心や、親しくなりたいという欲望、最後の一線を越えたいという願望などといった、好意のあらわれを刻みつけることができる。(クンデラ『冗談』) |
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憎しみの情というのじゃなくてもこの女とってもマヌケだな、と思っても男は好意をもって近づいてくるからな。トクってのか勘違いしやすいんだろうよ。
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というわけでとってもシツレイしました。老いた男の戯言でした。 |
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その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』) |