私は多くを読んでいるわけではないが、『ジェンダートラブル』(1990年)のジュディス・バトラーから、『セックスする権利』(2021年)のアミア・スリニヴァサンまでのフェミニズムにおいて、まずは何が問題なのかと言えば、欲望と欲動の区別がついていないことだよ。 |
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より具体的にいえば、例えばセックスは社会的構築物というバトラーの稚拙な記述がいまだもってまともに批判(吟味)されていない。 |
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『セックス』と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ[perhaps this construct called “sex” is as culturally constructed as gender; indeed, perhaps it was always already gender](ジュディス・バトラー JUDITH BUTLER, GENDER TROUBLE, 1990) |
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社会的構築物とは欲望の審級にある。欲望の言語の審級に。あるいは自我の審級に。他方、ジェンダーの彼岸にある欲動は身体の審級、エスの審級にある。この観点からは、フェミニズムが囚われているのは事実上自我心理学だ。 確かにフェミニストはしばしば「身体」という語を口にする。だがその身体は言語に囚われた身体、自我の身体(欲望の身体・ナルシシズムの身体)であり、けっして欲動の身体ではない。
だからフロイトラカン派から馬鹿にされる。 |
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ジェンダー理論は性差からセクシャリティを取り除いてしまった。ジェンダー理論家は性的実践を語り続けながら、性を構成するものへの問いを止めた[Gender theory [...] it removed sexuality from sexual difference. While gender theorists continued to speak of sexual practices, they ceased to inquire into what constituted the sexual](ジョアン・コプチェク Joan Copjec "Sexual Difference" 2012年) |
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驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである[It is striking how little attention has been paid to the drive and to sexuality in contemporary gender studies.](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe「ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 」2005年) |
米フェミニズム文化内の爆弾女カミール・パーリアも次のようなことを言い続けている。 |
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フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。Trying to build a sex theory without studying Freud, women have made nothing but mud pies(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992) |
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フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女のようだ。〔・・・〕フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。Feminism is dead. The movement is absolutely dead. The women’s movement tried to suppress dissident voices for way too long. There’s no room for dissent. It’s just like Mean Girls. 〔・・・〕Feminist ideology is like a new religion for a lot of neurotic women. (カミール・パーリア Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture, November 16, 2013) |
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フェミニズムが生き返ることがあるなら、欲望と欲動、自我とエスの区別がついてからだよ、少なくともフロイトラカン派の観点からは。 この区別は快原理内と快原理の彼岸の区別でもある。
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