中井久夫は「医療の歴史」にかんしての語りにおいて、ギリシャの民主主義の「奇麗ごと」を指摘している。
近代医療のなりたちですが、これは一般の科学の歴史、特に通俗史にあるような、直線的に徐々に発展してきたというような、なまやさしい道程ではありません。
ヨーロッパの医療の歴史は約二千五百年前のギリシャから始めるのが慣例です。この頃のギリシャは、国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました。当時のギリシャでは神殿にお参りしてくる人のために神殿付きドクターと、一方では奴隷に道具一式をかつがせて御用聞きに回るドクターとがありました。 |
ドクターの治療を受けられたのは中間層であって、奴隷は人間として扱われていなかったのでしばしば病気になってもほっておかれました。市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っているんです。これが民主主義の始まりみたいな奇麗ごとにされていますが、働かない人というのはものすごく退屈していますから、面白い話をしてくれる人が歓迎されます。そこでは妄想は皆が面白がって、病気とはみなされなかったようです。いちばん上の階級である市民が悩むと「哲学者」をやとってきて話をさせます。つまり当時の哲学者はカウンセラーとして生計を立てているのです。この辺はローマでも同じです。ローマ帝国は他国を侵略して、だんだん大きくなってきます。他国人を捕えて奴隷として働かせ、消耗品として悲惨な扱いをしていました。暴力の発散の対象に奴隷がなって、慰みに殺されたりしています。(中井久夫「近代精神医療のなりたち」初出1994年『精神科医がものを書くとき』所収) |
《国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました》とあり、一番上層の《市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っている》。こんなものは奇麗ごとだと。民主主義から外れるのは、奴隷や職人、外国人だけではない。当時のこと、もちろん女性も排除されている。
柄谷もこう言っている。
アテネの民主主義は成員の「同質性」に基づいている。それは異質な者を排除する。その象徴的な例が民主派によるソクラテスの処刑である。〔・・・〕 ソクラテスを告訴し有罪にしたのは(アテネの)民主政であった。 ソクラテスが人々の目に、アテネの社会規範に対して最も挑戦的な存在として映ったのは、告訴にあった理由(ポリスの神々をみとめないこと等)からではない。根本的な理由は、彼がアテネにおいて、公人として生きることの価値を否定したことである。(柄谷行人『哲学の起源』2012年) |
異質な自由人ソクラテスの排除である。 この民主主義という制度の「異者な者の排除」の特徴は、柄谷において繰り返されるカール・シュミットへの依拠である。 |
民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質な者の排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…] Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
他方、世界に冠たるデモクラシー(大衆の支配)の国であるだろう日本的民主主義は、アテネの上層階級の民主主義ではなく、労働集約的ムラ社会の同質性に特徴があるとしてよいだろう。 |
日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕 社会的環境の典型は、 水田稲作のムラである。 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は、共通の地方神信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。 この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、 それでも意見の統一が得られなければ、 「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。 |
これをムラの成員個人の例からみれば、大枠は動かない所与である。個人の注意は部分の改善に集中する他はないだろう。誰もが自家の畑を耕す。 その自己中心主義は、ムラ人相互の取り引きでは、等価交換の原則によって統御される。 ムラの外部の人間に対しては、その場の力関係以外に規則がなく、自己中心主義は露骨にあらわれる。 このような社会的空間の全体よりもその細部に向う関心がながい間に内面化すれば、習いは性となり、細部尊重主義は文化のあらゆる領域において展開されるだろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
このムラ社会は異質な者がいないからこそ、逆に異質性を見出し「いじめ」の対象とする特徴をもっている。これがムラ八分である。 |
柄谷行人) 欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。 |
文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年) |
集団結束のためにはいじめの対象が必要なのである。 集団に理想あるいは指導者や理念がなければ、特定の個人や制度に対する憎悪が集団を同一化させる。 |
民主主義とは、治者と被治者と同一性、支配することと支配されることの同一性、命令することと従うことの同一性である。Demokratie (...) ist Identität von Herrscher und Beherrschten, Regierenden und Regierten, Befehlenden und Gehorchenden(カール・シュミット『憲法論』1928年) |
原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年) |
指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こしうる。Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章) |
サルトルが、《もしユダヤ人が存在しないとすれば、反ユダヤ主義者はユダヤ人を発明するだろう[si le Juif n'existait pas, l'antisémite l'inventerait.]》(サルトル『ユダヤ人問題についての考察』1946年)と言ったように、指導者や理念がない、あるいは集団を結束させるには十分でないなら、「敵を発明する」こと。これがナチの天才理論家シュミットの友敵理論の核のひとつである。 |
政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である[Die spezifisch politische Unterscheidung, auf welche sich die politischen Handlungen und Motive zurückführen lassen, ist die Unterscheidung von Freund und Feind]〔・・・〕 政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとはかぎらず、敵と取引きするのが有利だと思われることさえ、おそらくはありうる。敵とは、他者・異質な者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質な者であるということだけで足りる[Der politische Feind braucht nicht moralisch böse, er braucht nicht ästhetisch hässlich zu sein. Er ist eben der andere, der Fremde, und es genügt zu seinem Wesen, dass er in einem besonders intensiven Sinne existentiell etwas anderes und Fremdes ist. ](カール・シュミット『政治的なものの概念』1932年) |
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最後にもっと一般論を掲げておこう。現代人はみな教室で差別を学んでいる。異質な者の排除という民主主義を学ぶのは学校である。 |
問題は、十九世紀という時代がその中葉にかけて、原理的には誰もが通過せざるをえない儀式的な場として、教室と呼ばれる権力空間を発明したということにある。それが権力的であるというのは、もちろん、教師と生徒という異質な個体が、一方は単数でいま一方は複数の視線を交錯させる場としての空間的な配置による管理性の確立という点から考えうる問題でもあろうが、ここでの関心は、誰もが同じ資格でそこに存在していながら、その複数の平等な視線同士のあいだに力学的な葛藤が生じ、きまって優位と劣性という関係がその制度的空間を分割することになるという点だ。つまり、義務教育が制度として確立していらい、教室とは、「多数派が常に正しく、少数派が常に誤っている」という権力関係によって不可視の分割が実践される場の典型として生きられることになるのである。人が、差別をあからさまに学ぶのは、教室にほかならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』「ⅩⅤ 教室と呼ばれる儀式空間」p220) |
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教室という権力空間を占有する「多数派」が正しいのは、彼らの側に真理があるからではなく、もっぱら、その連中が、同じ一つの物語を共有しているからにすぎない。そして、その物語の中で、新入生は、常に正しからぬ「異物」という機能を演じなければならない。「少数派」が常に誤っているのは説話論的な機能としてそうなのであり、真理と誤謬、善と悪といった倫理的な基準とは何の関係もないことである。同じ言葉を共有しえないもののみが、正しくない。そしてこの事実は、教室という儀式空間がそうであるように、文学が十九世紀の中葉になしとげえた歴史的な発見とるいうべきものだ。 あたかもそれを証拠だてるかのように、フランス語は、それまで存在していなかったある単語をこの時期に捏造する。それは、新入生いじめ bizutage の一語である。多くの語彙論的な文献は、その一語が一八三五年を境として記号の圏域に流通し始めることを証言している。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』「ⅩⅥ 説話論的な少数者に何が可能か」p 225) |
すでに述べたように、十九世紀中葉に成立した教室という新たな舞台装置は、特権的な権力空間である。そこを支配する権力構造は誰もが知るごとく、二重のものだ。管理者としての教師が生徒たちに及ぼす制度的な権力と、生徒たち同士がたがいに作用させあっている習慣的な振舞いの固定化された権力とが、異質なやり方で「新入り」の精神と肉体とをこわばらせる。「新入り」は、異る存在として、そこに機能している権力の磁場に馴れることを要求される。つまり、異っている自分を模倣によってその磁場に同調させざるをえないし、また、同調させえねぬかぎり、自分はどこまでも不幸であるほかはないだろう。 |
こうした権力関係の舞台装置としての学校は、十九世紀の中葉にいたって、文学の構造に一つの感知しがたい変容をもたらす。その変容は、冒険小説、教養小説と呼ばれる文学ジャン ルの内面化とるいうべきものだ。自分には未知であった土地、あるいは無縁であった人間集団と接触し、それとの葛藤、あるいは和解といった過程を通りすぎることで自己を発見するという文学的主題と等価の体験が、ごく身近な都会の誰もが知っている通りとか、田舎の何の変哲もない建物の扉を押して壁の内側に足を踏み入れただけで、ごく簡単に得られることになるからだ。そのとき自分の馴れ親しんでいた環境との空間的な距離はあっさり廃棄され、遠い世界に旅立つことなくまるで散歩に出るような気軽さで人は教室に入ってゆくことができる。しかもそこで、自分は徹底的な異人として、敵意ある視線の対象となってしまう。だから、人は、もう遠い異国に旅立つまでもなく未知の体験を演じうるわけだ。それが、いまだ過渡的な混乱を残しているとはいえ、近代の義務教育と呼ばれるるのが文学に及ぼした決定的な変質なのである。原則としで誰もが通過しうる儀式的な環境としての教室が、ロマン主義の発見したという未知の世界の地方色を凡庸に中和したというべきだろうか。空間的な尺度は情けないまでに縮小され、そこで出合う異質な体験の持主たちの表情も劇的な緊張を恐しく欠いている。ただ彼らは、その密閉空間に支配している説話論的な磁場に通じていないというだけの理由で、「新入り」を嘲笑する。それは、文字通り、多数派が常に正しい世界なのである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』「ⅩⅥ 説話論的な少数者に何が可能か」p 227-228、1988年) |