ま、結局こういうことなんだよな、日本は必ず訪れる大地震のカタストロフィを抱えているわけで、「今=ここ」に生きるしかないんだ。このままでは1ヶ月半後の広島サミットが戦争翼賛の恥辱のサミットになりうることにさえ関心がない。
日本文化の中で「時間」の典型的な表象は、一種の現在主義である。それは日本の文学的伝統や日常生活の習慣にも見られ、始めなく終わりない時間のことである。またそこにあるのは現在あるいは「今」だけだという意味で、もう一つの表象として循環する時間が挙げられる。循環する時間は、過去、未来、全ての時間の現代化を意味する。
そうすると時間の「全体」は、現在=今が無限に連なる直線、あるいは無限に循環する円周であると言える。これは日本文化の伝統が強調する現在集中主義が、全体に対する部分重視傾向の一つの表現と解することもできる。ここでは部分が集まると全体が現れる。
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また「空間」においても、私の住む場所=「ここ」、つまり部分が先ず存在し、その周辺に外側空間が広がる。その外側の全体は、日本の伝統では強い関心の対象ではなかった。一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団領域を「ここ」として意識し、その「ここ」から世界の全体を見る。
こうした部分が全体に先行する心理的傾向の時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。こうした日本の全体に先行するものの見方は、「今=ここ」文化として今も根本的に変わってはいない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)
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そして、この加藤周一曰くの「今=ここ」文化は《閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神》等々を生み出すんだ。
「春秋二義戦ナシ」とは孟子の言葉である。日本国の十五年戦争、南京虐殺から従軍慰安婦、捕虜虐待から人体実験まで―を冒したことは、いうまでもない。そういうことのすべてが、いまからおよそ半世紀まえにおこった。 いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観―もしそれを文化とよぶとすれば、そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない、今日の問題である。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんな若い日本人も免れることはできない。かつていくさと犯罪を生み出した日本文化の一面と対決しない限り、またそうすることによって 再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうと努力しない限り。たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別...。(加藤周一『夕陽妄語2』1992-2000)
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この《再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうと努力》しない「今=ここ」文化精神は、例えば『ツナミの小形而上学』で名が知れたヘーゲル主義者デュピュイ曰くの《カタストロフィを意識の外へと追いやってしまう》ーー、これは一般論として言われているのだが、日本人はことさら、必ず訪れる大地震を抱えているのだから、こうなるのはやむ得ないこととさえ言える。
数多くのカタストロフィーが示している特性とは、次のようなものです。すなわち、私たちはカタストロフィーの勃発が避けられないと分かっているのですが、それが起こる日付や時刻は分からないのです。私たちに残されている時間はまったくの未知数です。このことの典型的な事例はもちろん、私たちのうちの誰にとっても、自分自身の死です。けれども、人類の未来を左右する甚大なカタストロフィーもまた、それと同じ時間的構造を備えているのです。私たちには、そうした甚大なカタストロフィーが起ころうとしていることが分かっていますが、それがいつなのかは分かりません。おそらくはそのために、私たちはそうしたカタストロフィーを意識の外へと追いやってしまうのです。もし自分の死ぬ日付を知っているなら、私はごく単純に、生きていけなくなってしまうでしょう。
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これらのケースで時間が取っている逆説的な形態は、次のように描き出すことができます。すなわち、カタストロフィーの勃発は驚くべき事態ですが、それが驚くべき事態である、という事実そのものは驚くべき事態ではありませんし、そうではないはずなのです。自分が否応なく終わりに向けて進んでいっていることをひとは知っていますが、終わりというものが来ていない以上、終わりはまだ近くない、という希望を持つことはいつでも可能です。終わりが私たちを出し抜けに捕らえるその瞬間までは。
私がこれから取りかかる興味深い事例は、ひとが前へと進んでいけばいくほど、終わりが来るまでに残されている時間が増えていく、と考えることを正当化する客観的な理由がますます手に入っていくような事例です。まるで、ひとが終わりに向かって近づいていく以上のスピードで、終わりのほうが遠ざかっていくかのようです。
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自分ではそれと知らずに、終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう、完全に客観的な理由をひとは手にしているのです。驚きは全面的なものとなりますが、私が今言ったことはみな、誰もがあらかじめ知っていることなのですから、驚いたということに驚くことはないはずです。時間はこの場合、正反対の二つの方向へと向かっています。一方で、前に進めば進むほど終わりに近づいていくことは分かっています。しかし、終わりが私たちにとって未知のものである以上、その終わりを不動のものとして捉えることは本当に可能でしょうか? 私が考える事例では、ひとが前へと進んでも一向に終わりが見えてこないとき、良い星が私たちのために終わりを遠く離れたところに選んでくれたのだ、と考える客観的な理由がますます手に入るのです。……(ジャン=ピエール・デュピュイ「極端な出来事を前にしての合理的選択」PDF)
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いまきみらがツイッター上でやっているのはこれだよ、そうとしか思えないね。
で、繰り返せば、ある意味でやむ得ないという感にも襲われるんだな。とくにこの2023年なら南海トラフの大カタストロフィを間近に抱えてるんだからさ。
日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号 )
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危機と言われる。この言葉ほど風化しやすいものはない。人は危機感を日常に長くは保っていられないものらしい。それでは生きられない。しかし危機そのものは日常につねにつきまとう。(古井由吉『楽天の日々』2017年)
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「文明社会を構築してしまったという問題」とあるけど、地震というのは茅葺き屋根に掘立小屋だったらーー火事と津波以外は、土砂崩れとか人口稠密とかもあるかーー大した被害はないんだよ、明治以降、日本という土地で欧米のモノマネした不幸だね。
こういうことに思いを馳せると、きみたちへの嘲罵の勢いが失せちまうんだな。オレの悪い癖だ。
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