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2023年4月26日水曜日

子どものころ住んでいた路地の奥

森の鞘」ってのは別の言い方すれば、梨の木柿の木が肝腎だってことだ、そういうより他ないね


十三秒間隔の光り 田村隆一


新しい家はきらいである

古い家で生れて育ったせいかもしれない

死者とともにする食卓もなければ

有情群類の発生する空間もない

「梨の木が裂けた」

と詩に書いたのは

たしか二十年まえのことである

新しい家のちいさな土に

また梨の木を植えた

朝 水をやるのがぼくの仕事である

せめて梨の木の内部に

死を育てたいのだ

夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィを読む

「未来にいかなる幻想ももたぬ」

というのがぼくの唯一の幻想だが

そのとき光るのである

ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上

大島の灯台の光りが

十三秒間隔に






詩の擁護又は何故小説はつまらないか  谷川俊太郎


ーー「詩は何もしないことで忙しいのです」ビリー・コリンズ(小泉純一訳)



初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を

MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない

そんなのは小説のやること

詩しか書けなくてほんとによかった


小説は真剣に悩んでいるらしい

女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか

それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか

そこから際限のない物語が始まるんだ

こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの

やれやれ


詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ

小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る

のも分からないではないけれど


小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で

抜け穴を掘らせようとする

だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、

子どものころ住んでいた路地の奥さ


そこにのほほんと詩が立ってるってわけ

柿の木なんぞといっしょに

ごめんね


人間の業を描くのが小説の仕事

人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事


小説の歩く道は曲がりくねって世間に通じ

詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く


どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにしてやれないが

少なくとも詩は世界を怨んじゃいない

そよ風の幸せが腑に落ちているから

言葉を失ってもこわくない


小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に

宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら

祖霊に口伝えされた調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする


人類が亡びないですむアサッテの方角へ 





梨の木柿の木というよりも、むしろもっとはっきり「子どものころ住んでいた路地の奥」っていったほうがいいかね。


中上健次は路地はどこにでもあると言ったらしいがね、


俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。(四方田犬彦『貴種と転生 中上健次』“補遺 一番はじめの出来事”)

路地では、いま「哀れなるかよ、きょうだい心中」と盆踊りの唄がひびいているはずだった。言ってみれば秋幸はその路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った。秋幸に父親はなかった。秋幸はフサの私生児ではなく路地の私生児だった。(中上健次『枯木灘』)



とはいえ、路地奥を胸内に、心にしか抱えていない男は最初から負けてんだよ、股内に、身体に抱えている女にかないっこない。


昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた(あるいはおそらくそう感じていた)。子どもは小さな死を、おとなは大きな死を自らのなかにひめていた。女は死を胎内に、男は胸内にもっていた。誰もが死を宿していた。それが彼らに特有の尊厳と静謐な品位を与えた。

Früher wußte man (oder vielleicht man ahnte es), daß man den Tod in sich hatte wie die Frucht den Kern. Die Kinder hatten einen kleinen in sich und die Erwachsenen einen großen. Die Frauen hatten ihn im Schooß und die Männer in der Brust. Den hatte man, und das gab einem eine eigentümliche Würde und einen stillen Stolz.(リルケ『マルテの手記』1910年)

死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。

Der Tod ist die uns abgekehrte, von uns unbeschienene Seite des Lebens(リルケ「リルケ書簡 Rainer Maria Rilke, Brief an Witold von Hulewicz vom 13. November 1925ーードゥイノの悲歌をめぐる)